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夏目房之介の「で?」

『グリーン・ランタン/グリーン・アロー』小学館集英社プロダクション

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 グリーン・ランタンは、宇宙人から超越的なエネルギーをもらった正義の味方、アメリカン・コミックスのコスチューム・ヒーローである。1940年デビューというから、戦争をまたいだヒーローだが、本作はグリーン・ランタンが、もうひとりの(地味な)DCヒーローだったグリーン・アローと組む、デニス・オニールの脚本、ニール・アダムスが絵を担当した70年代の作品で、70~74年のシリーズのうちから選ばれた傑作選である。

 とはいっても僕はグリーン・ランタンの名前を聞いた覚えがあるくらいで、読んだことはもちろん、見たことも多分ない(のちにヒーローが総出演するようなコミックで見たくらいかも)。が、アメコミの名作といわれているらしい。なぜかというと、60年代からの若者文化、対抗文化の波の中で、社会的な問題意識をアメコミ・ヒーロー物に引き込んだからだという。
読んでみて驚いた。いやあ、やってますねー。やっぱアメコミも、あの時代の波をかぶってたんだなあ。

 まずグリーン・ランタンは、相変わらず「法を守ること」を至上にするお決まりの優等生「正義の味方」なのだが、それほど有名でなかったグリーン・アローは「正義」に疑いを持ち、ややすさんだアウトロー的なヒーローで、ランタンが暴力沙汰から守った男が、じつは金と権力で庶民を苛める悪人であることを教えたりする(こうした行き違いで、二人はしょっちゅうケンカしている)。男は行き所のない老人や黒人たちを古いアパートから追い出し駐車場にしようとしている。貧しい庶民を代表する老婆や黒人の顔が、非常にリアルに大きく描きこまれ、絵がいい。ニール・アダムスの絵は、ひょっとしたらバロン吉元に影響してるんじゃないかと思われるシャープな感じで、見せる。

 この事件で「正義」の相対性に目覚めたランタンは、しかし力を与えてくれた宇宙人から叱責される。が、逆に宇宙人を説得、宇宙人の代表がランタン、アローとともに、アメリカの現実を見るために旅をするという話になっていく。もちろん、その先々で事件に遭遇するのだが、扱われる問題は地方の権力者と労働者の軋轢だったり、狂信的な宗教集団だったり、ネイティブ・アメリカンの居留地の問題だったり、人種差別、女性差別、開発と環境破壊、若者の麻薬問題など、厄介な現実の問題を多く主題化している。

 基本は「お子様向け」のヒーロー物だし、1回が20ページちょっとのせいぜい2回分だったりするので、類型的ではあるのだが、当時としてはかなり先鋭的な試みだったろうと思わせる。事実、ジャーナリズムなどからはかなり反響があったらしい。ドラッグ問題の回では、当時のNY市長から賞賛の手紙が届き、次号に掲載されたという。ただ売り上げ的にはそれほどではなく、4年ほどで打ち切りになったそうだ。

 日本でも同時期に同じような試みはあった。子供向け(脚本のデニスは対象年齢を「7~8歳」としているが、実際はどうだったんだろう)ということでいえば、すでに少年誌が青年化し青年劇画誌が成立していたマンガよりも、TVのウルトラマンや仮面ライダーなどに社会問題的主題が取り込まれるのに近い感じだろうか。

 見所はたくさんあるが、たとえば宇宙人に「正義」と法の問題を説くとき、グリーン・アローは〈この国は今 病に苦しんでるんだぞ![略]メンフィスじゃ立派な黒人が死に、ロサンジェルスでは、立派な白人が倒れた〉(34p)と語り、背後にキング牧師とロバート・ケネディの顔が描かれる。また搾取される鉱山労働者の状況を歌にしたために絞首刑にされそうになる若者の描写は、当時のプロテスト・ソングのシンガー・ソングライターを彷彿とさせ、土地の権力者から〈あのディランとかいう歌手みたいに〉(48p)といわれ、現実の世界との同時性を積極的に取り入れようとしている。ヒーローそれぞれに恋愛描写もあり、明らかに主題的には思春期向けのように思える。実際、デニス・オニールは序文の中で、この作品で自己表現の手段としてコミックを使えるようになったと書いている(6p)。

 面白いのは、彼らと旅をする宇宙人が次第に人間的感情を理解して変化し、宇宙人たちの「法」で裁かれようとする話だ。その宇宙人は、重症を負ったランタンを救うために、爆発しそうな投棄されるべき有害物質を船から投げ捨てる結果を生み、友情をとって、より大きな未来世代への災害をもたらした罪を問われるのである。ここでは、おそらくアメコミでは本来問われることのない、「正義」をもたらす源の世界観が問われており、解決はつかないが、ある意味で作品のメタレベルでの問題に開こうとしているようにも見える。

 他にも考えてゆくと面白そうな問題が色々詰まっている作品で、映画公開に合わせて編集されたものだろうが、じつに興味深い歴史的な作品が訳されたといっていいだろう。これまで多くのアメコミの名作が翻訳されたが、その流れを作った歴史的な作品のひとつなのかもしれない。アメコミ・ヒーローが、たとえば9/11のような事態のときに、現実には無力であることを衝撃とともに受け取ったアメコミ・ファンとか、『キック・アス』のように現実にコスチューム・ヒーローになろうとする若者とか、正直僕には今ひとつ理解できないところがあるのだが、こういうフィクションの作り方の流れとも関係があるのだろうか。

追伸

 その後、バロン吉元がまだアメコミっぽい絵で描いていた頃の『SNEAKY SHARER(スネーキーシャラー)』(「週刊漫画アクション」69年1~11号)のうち、スクラップしてある4回、6回、最終回を見てみたが、ニール・アダムスらの絵とは、だいぶ違う印象を受けた。バロンの絵は、すでに筆を使ったような大胆な太い線と、繊細な細い線が、草書的な筆致で流れていて(インカーによっては『グリーンランタン』にも、近いものがあるかもしれない)、しかし全体に抑制された表現だった。アクションなどでも、『グリーン・ランタン』に見られるような、大きく強調されるゲンコツや、体全体が伸びるように遠近が強調された表現は見られず(これらはむしろ現在日本マンガの特徴と欧州などでみなされている)、むしろおとなしい描写が多い。その場の状況をナレーションで説明するなど、アメコミ的な描法も見られるが、多くはない。

 何よりも、バロンの身体運動描写は重さ、地の引力を感じさせるが、『グリーンランタン』はむしろ浮遊した印象がある。
 むろん直接の影響を指摘しようとしたわけではないが、アメコミとしても系統は異なるのかもしれない。あるいはバロンがアメコミ的な表現を自分のものにしていた部分なのか。いずれにせよ、『柔侠伝』以前のバロンの、アメコミを意識した絵は、やっぱりかっこいいなあ、とあらためて思った。

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