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夏目房之介の「で?」

「貸本マンガの時代」第2回「劇画の誕生 辰巳ヨシヒロ」

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昨日、28日(日)は森下文化センター「貸本マンガの時代」第2回「劇画の誕生」に行った。企画者の内記さんが司会をなさるはずだったのが、お具合が悪く、F・Mロッカー氏が代行(内記さん、早くよくなってください。みんな、心配してます)。辰巳さんは、滅多にこうした場に出てこられないが、「内記さんに頼まれたら断れないから」とおっしゃっていた。内記さんの人徳である。

辰巳さんのお話の中で印象に残ったのは、一時期仕事が減った頃(×多分70年代末?→○60年代)に、×三流エロ劇画誌→○三流誌から依頼があったというくだり。辰巳さんは気がすすまなかったのだが、編集者が熱心だったそうだ。辰巳さんは、それ以前、多くの依頼に応えて作品を描かざるをえず、本当は自分の頭の中にあった「劇画」のイメージとは違うものを描かれていたという。が、その編集者が求めるものは、自分の中にある「劇画」に近いものだった。それだけに編集者の要求は厳しく、もしこの作品が打ち切られるようならば自分は編集をやめるとまでいったそうだ(事実、打ち切りになったとき、彼は郷里に帰ってしまったという)。

後年の辰巳マンガを形成するきっかけになった仕事といえるかもしれない。辰巳さんの記憶では「劇画ナントカ」という三流誌で、毎回8ページ連載で一年続いた。誰だったか、おそらくそのタイトルは『失われた世界』ではないかといっていた。その後、辰巳さんは青年誌で活躍するようになる。三流劇画の時代に、そうした編集者が存在し、作家にとって重要な契機となったことは、当時の熱い時代の雰囲気とともに記憶されていいだろう。

もうひとつは、最近海外の監督が作った『TATSUMI』という映画の話。それ以前に作られた映画は、辰巳作品を変えて作られていて、辰巳さんとしてはすごく嬉しかったという。自分の作品から全然別のものが創られることが面白いのだそうだ。が、今回は監督が「辰巳作品を変えたくない」といって、そのまま映像化しているらしい。そこが辰巳さんとしては不満のようだった。辰巳さんという作家の、創作への考え方、感じ方を示す挿話だった。その映画のアニメ化スタジオが、シンガポールに近い、インドネシアの島にあったというのも興味深かった。

そのほかにも、辰巳さんのイメージしていた「劇画」が、やがて白土三平、小島剛夕らがそう呼ばれるようになった頃、「我々の劇画は古いといわれた」という言葉も印象的だったし、多くの示唆的なお話が聞けた。

会場は、ほぼ満杯のお客さんで、それもファンからマンガ家、研究者やコレクターなど、相当レベルの高い聴衆で埋まっていた。また、ロッカー氏の用意された画像も、投稿時代の作品など珍しいものが多く、それを期待してまん前に陣取ったかいがあった。

終了後、サイン会。その間、いつも会えない研究者などと歓談。学習院の僕の専攻に60年代のオルタナティブ・マンガを中心に調査に来ているアメリカの客員研究員R氏もきていたし、ビッグ錠さんにも声をかけていただいたし、『マンガの読み方』の当時宝島社にいた担当編集者とも久しぶりに再会した。丸山昭さんもお元気そうだったが、そういうと例によって「いやダメなんですよ、原因不明の血尿が出たし」などと、あの優しくいたずらっぽい顔をしておっしゃる。やだなー、丸山さんもまだまだお元気でいていただかないと困ります。

さらに二次会に流れ、僕は辰巳さん、ビッグ錠さん、巴里夫さん、ロッカーさん、小野耕世さんの近くに座り、色々お話を伺った。下元克巳さん、みなもと太郎さん、藤本由香里さん、秋田孝宏氏、斎藤宣彦氏、えーとまだたくさんいたけど、とにかくとんでもない人々と一緒に話が尽きず、結局10:30過ぎまで話し込んでしまった。マンガ好きといっても、学生の「好き」レベルではない人たちばかりで、とにかく話が濃密なのだ。小島剛夕ファンのコレクターの女性と、やはりコレクターで世が世ならお目通りもかなわない殿様の血筋のコレクターの男性のやりとりには、さすがのみなもとさんも沈黙せざるをえないという、とんでもなく珍しい場面にも遭遇してしまった。いやはや楽しかったです。

僕は昔から、辰巳さんの描く女性の、あの豊かな曲線にリアルな肉感を感じていて、そのことをちょっとお話したら、辰巳さんは「う~ん、そういう風に読まれているのか」と妙な感心をされていた。本当は、もっとその話もしたかったなあ。

また、下元さんから色紙にサインしてくれといわれ、もちろんさせていただいた。しかし、よく考えると立場逆である。僕にとっては10~20代に貸本やCOMで読んでいた青春マンガの作家なのだ。まさか、こんな時がくるとは、40年前の僕には想像もつかなかったよ。当たり前だけど。

追伸
上記のうち、以下の箇所について知人の編集者から訂正が入りましたので、訂正いたします。

>辰巳さんのお話の中で印象に残ったのは、一時期仕事が減った頃(多分70年代末?)に、三流エロ劇画誌から依頼があったというくだり。辰巳さんは気がすすまなかったのだが、編集者が熱心だったそうだ。

〈これは68年、明文社「劇画ヤング」のことです。編集者が若い人で物怖じしないタイプだったのか、辰巳さんの作品を見て、説明的なセリフなどを「これは必要ない」とどんどん削っていって、辰巳さんも目からウロコだったとか。このことは68年に辰巳さんの作風がガラッと変わるので明ら かですし、辰巳さん自身、海外含めインタビューで何度も語っていて、ご本人の中でも「ネタ化」が進んでおり、トークとしての完成度も高いエピソードなんです(笑)。〉

というわけで、僕が確認せずに書いてしまったので、急遽訂正しました。淺川さんの提言にしたがって、以下のように直します。辰巳さん他、みなさんにお詫びします。

「70年代」→「60年代」
「三流エロ劇画誌」→「三流誌」

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