8月2日、講演
2日は花園大学での毎年やっている講演。
今回は、僕が日常読んでいる雑誌などから東日本震災に関するものをいくつか選んでみた。まだうまく語れないので、レジュメはエッセイ風に書いたが、実際の講演ではまた別のことを話している。会場には、村上知彦氏、泉信行氏、F・M・ロッカー氏や関西在住の研究者の方々が来てくれて、質疑も彼らとのやりとりとなった。
講演後、甲南女子大学に移られた増田のぞみさんが関西の研究者との交流会を催してくれて、上に書いた方々とともに食事会へ。リラックスした雰囲気の中で非常に充実した話が飛び交った。東北大から精華大(京都国際マンガミュージアム)に移った岩下朋世さんは、講義の仕方について課題を語り、村上さんは大学のありようについて思っていることを語り、僕も大学の専任の先生になって経験したことを話したり、ほかの研究者とはジャパン・クールの流れで講義を持たされて、どうしても日本固有文化を語ることになるのだが、どうしたらいいのかという悩みも聞いた。こういう交流会をするのが、そもそも花園大での集中講義を続けている動機の一つでもあるので、できれば恒例化したい。交流会は二次会に流れ、結局花園会館に帰ったのは11時過ぎ。充実はしていたけど、今回は7月からの流れがほんとにハードでいやはや疲れた。
2011.8.2 花園大学夏季「夏目房之介の漫画講座」 東日本大地震とマンガ 夏目房之介
はじめに
東日本大震災の犠牲者、被災者の方々にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
今回の大地震は、地域や様々な立場の違いごとに異なるでしょうが、おそらく第二次大戦に次ぐくらいの大きな心理的影響を日本及び各国に与えたと思われます。日々この国の人々の潜在意識を反映するメディアでもあるマンガにも、その影響は現れました。
今回ご紹介するマンガは、私が日常目を通しているごく一部のマンガから拾ったもので、マンガ全体の地震に関する影響を俯瞰するものではありません。その小さな窓から、マンガがどのように地震を描いたかを考えてみたいと思います。
本日来られた方の中には、あるいは犠牲者、被災者のお身内の方もおられるかもしれませんし、また阪神大地震を経験された方もおられるかもしれず、そうした方には違和感を持たれる場合もあるかもしれません。が、私は自分の日常とその感覚の中で、これらのマンガを読み、そのことの意味を考えてみたいと思います。傲慢に感じられるところがあるかもしれませんが、それが私の今できるささやかな検証であることをご理解いただければ、と思います。
1)当日の印象 とりみき『とりったー』7(「月刊コミック・リュウ」2011年6月号) 12p
図版1 188~189p ツイッター中の作者が大きな揺れを感じTVをつける。NHKのTV画面の再現と津波前の気仙沼、石巻の海岸近くの映像、互いに安否を問うツイッター画面が交互に描かれ、その後の推移が数個の風景イメージと怒涛のツイッター状態の象徴的見開きで描かれる。最後の1ページは全部ツイッター画面で、連絡を取りつつ、そんな状況の中でもマンガを描いている自分に言及。
おそらく、日本中で行われた風景のドキュメンタリーなマンガ的再現。それらの事態や自分の立ち位置についての論評や言及はない。この大きな事態をトレースしつつも、日常的な営為を行っているしかない多くの人の感じ方を代理してもいる。俯瞰でも、直接の感情でもなく、その日の印象の再現に徹することで、大きな衝撃を受け止めること自体を表現にする。
2)無意識の作品化 しりあがり寿『海辺の村』(「コミック・ビーム」2011年5月号) 24p
図版2~3 単行本『あの日からのマンガ』エンターブレイン 2011.8.5刊 16,30p 震災一カ月後に発表された作品。震災後50年、世界的なエネルギー・シフトが起こり、石油から次世代エネルギーへと転換する頃、拾ってきた太陽光パネルでようやくTVがつくような農村に暮らす家族が描かれる。寝たきりの老人は昔の豊かさを懐かしみ、「ゲンパツ」の近くで生まれた子供達にはなぜか天使のような羽が生えている。震災当時、多くの人の頭をかすめただろう産業社会の終焉的イメージを投影。しりあがりは震災後、新聞連載『地球防衛家のヒトビト』(毎日新聞)含め、自分の作品の主題を東日本大震災に絞り、描き続け、エンターブレインからそれらをまとめて緊急出版した。もっともビビッドに反応したマンガ家の一人。
同『川下り双子のオヤジ』(「小説宝石」2011年6月号) 8p
図版4 同上単行本 82~83p しりあがりらしいナンセンスの中で〈危険な女〉になったゲンパツを登場させる。彼女が〈絶対安全って言われて 未来の希望だって言われて もてはやされてきたのに ちょっと傷ついたらもうまるで私をキタナくて恐ろしいもののように扱う〉〈私の人生ってなんだったんだろう〉と演歌の「捨てられた女」のように嘆く様を描いている。原発を女性に喩え、人間の身勝手な哀しさを感じさせる作品。単純な「原発=悪」の発想から逸れ、事態の哀しさを人間そのものを悲しげに観想する諦念のようにとらえる。
同『そらとみず』(同上8月号) 24p
図版5~6 242~3,248~9,250~251p この作品は、最初から最後まで無言劇で、一種の救済的イメージが描かれる。今回の被災地と思われる瓦礫の街に雪のようなものが降り、やがて地面から大量の蓮が芽を出し巨大に成長する。蓮の花が咲き、その中から赤児達が生まれるが、地震と津波がやってきて、巨大な蓮の下に街は水没。その街からは泡のように大人の男女が浮き出し、一人の女性は天に昇る途中で、蓮の上の赤児を抱きしめ、他の大人達とともに昇天してゆく。残された赤児たちが天を見上げて笑っている絵で終わる。
これが救済的なイメージであることは、蓮が仏教的な連想を持つことからもわかるが、街に降る雪のようなものは放射性物質を連想させ、蓮と赤児がそこから生まれたようにも見えるため、単純に未来の希望を寓意しただけの作品ともいえない。いわば救済と不安の混在である。しりあがり作品は、これらに限らず寓意的な意味づけを無効にするしかけがある。この作品も一種の夢のように描かれていて、それが大地震を巡る我々の無意識の波長に同調すれば、その範囲で読者に受容されるだろう。マンガが、読者達の無意識=夢と回路を持っていることを感じさせる。
なお、しりあがり寿は、岩手の市民グループと連絡しつつマンガ家達に呼びかけ、5月26~28日、中学での特別授業やボランティア、イベントを行った。参加者は、吉田戦車、寺田克也、三宅乱丈、安田弘之、安永知澄、市川ラク。「ビーム」6月号には、彼らの「“客寄せマンガ”岩手漫画家応援ツアー」と題した各自2pのエッセイ・マンガが掲載された。
3)エッセイ・マンガ 安田弘之『岩手訪問』(「コミック・ビーム」8月号)
図版7 330~331p 上記エッセイ・マンガの一つ。〈3月12日以降ずっと引っかかってたことがある。/『がんばって』と言えない言いたくない/じゃあ自分の言葉って何だろう?〉という問いに始まり、被災地応援ツアーの怒涛の日々に飲み込まれ、人々の明るさが〈長く厳しい終りの見えない戦いだからこそ肩に力入れてたら息切れしてしまうのだと〉理解し、〈『また来ますね』〉という言葉なら自然にいえる気がしたと結ぶ。多分、多くの人が感じる惑いを描きつつ、現場のエッセイらしい出口を用意する。エッセイの素直さがわずか2pながら読者に救いを感じさせる。
三宅乱丈『箱崎にて』同上
図版8 334~335p 現場に到着した三宅がいきなり文庫本を踏み〈気持ち停止スイッチを入れることに決定〉するが、作業中こんどはタンスの底に子供服を見つけ〈気持ち停止スイッチついに壊れる〉。やさしい母親のイメージが浮かび、来る前に考えたことが〈どうでもいいこと〉に思え、〈シンプルで強い気持ちになれました〉と締めくくる。これも2pの中に、多くの人が持つだろう惑いを描き、作業の中で気持ちの出口を見出したように描かれる。
エッセイ・マンガが、ごく日常的な情緒をトレースしながら、小さな発見や「乗り越え」を、押しつけがましくない形で提起できる手法を作り上げてきたことの、ひとつの成果のように見える。
4)本音の不安と愚痴 いましろたかし『ぼけまん』(「コミック・ビーム」2011年7月号) 12p
図版9 384~395p ふだんは、まことに呑気で力の抜けた釣り好きのマンガだが、このところ福島原発を巡る不安を苛立ちととも描いている。冒頭、福島の原発爆発と雨の風景で始まり、ページをめくると登場人物(どこにでもいるサラリーマン風)が〈関東はもう終わってしまった〉と思いながら歩いている。〈惰性で日常をやっている〉人々に苛立ち、福島原発のTVニュースが始まるとチャンネルを変える蕎麦屋のおばさんに共感しつつ、〈マスゴミ〉を〈根性なし 東電の犬め〉と心中でののしる。そのくせ、熊本に知人を避難させようと電話してきた知り合いの〈東京もチェルノブイリ第3管理区域ですよ!! 僕は一人でも逃がしたいでんすよ!〉という電話に〈うるせえなバカヤロウ! めんどくさくって逃げられないんだよっ 大きなお世話だ〉と言い返す。不安をあおる様々な情報に〈人口1億2千万人・・・・こんな島国のどこに逃げ場があるんだよ〉と絶望して、祈りながら眠り、翌朝再び〈これから何10万人もガンで死ぬんだろ?〉と心中で怒りながら出社するところで終わる。
ネットなどで流れる無責任なデマ情報の連鎖を受容し流通させる不安とは、おそらくこの人物の表出する不安と同じものだろうと思わせる。本音でいえば、それは多くの人が持たざるをえない不安でもあり、本当は誰でもが彼のように誰かをののしり、泣きたい気持ちなのだと、あらためて感じさせる。不安をあおる言動は、たしかに現状では抑制されるべきだが、作品として表出されること、されてしまうことは、そこに必然性を見出す他はない。このような作家もまた我々の否定したい本音の不安を自覚させる意味で貴重かもしれない。
5)生活ギャグマンガ のりつけ雅春『さすらいアフロ田中』シリーズ(「ビッグコミック・スピリッツ」02年~連載中)『高校アフロ田中』『中退~』『上京~』『さすらい~』と続く
将来の夢も、さしたる目標もなく、ただのらりくらりと日々を生きる青年の、きわめて低体温なだらけた日々を描く連載だが、そこにも特有な形で震災が影響する。
図版10~11 「ビッグコミック・スピリッツ」11年6月6日25号 144~145,152~153p 放浪の果て、沖縄で無一文に近い生活をする主人公が、120円の缶コーヒーを買い、レジで大震災の義捐金の箱を目に。散々迷ったあげく10円を寄付し、突然さわやかな気分になる。その後、路上でも募金に出会い、立ち去ろうとして罪悪感を感じ〈オレ・・・・ひとつも悪い事なんかしてないのに~!!〉と自問しつつ再び10円寄付して満足感と充実感を感じる。日常的な場面で起きる、誰でも思い当たる小さな罪悪感を戯画化する。
図版12 同上7月4日29号 52~53p その後沖縄から東京に戻った主人公を、以前働いていた土建業の仲間が迎えにきて「人手が足りないから」と、そのまま宮城に瓦礫清掃のボランティアに連れて行かれる(6月27日28号)。まったく主人公の意志ではないが、イヤでもないのでボランティアに参加。下水口を一本清掃して感動するが、それが全体からは絶望的な範囲に過ぎないことを知る。主人公は無償で働く人たちを見て〈人間って・・・すげーなあ なんか・・・・〉と心中でつぶやく。怠け者でだらけた日常を目的もなく生きる主人公のスタンスを変えず、人に流されたままボランティアに参加させることで、マンガ作品の一貫性を保ったまま、震災とボランティアに関する日常的な視点をそのまま提示できている。マンガという娯楽媒体の自律性と、震災の影響が我々の日常と同じ平面で調和した表現といえるかもしれない。
6)ルポ・マンガ 鈴木みそ『僕と日本が震えた日 プロローグ』(「月刊コミック・リュウ」2011年8月号) 24p
図版13 42p 「ルポルタージュ・コミック」と銘打たれたこの作品冒頭で、作者が作品化を逡巡するのがむしろ一般的な反応だろう。震災についてのマンガを依頼された作者は、〈震災後しばらくの間 何描いていいのかわからなくなって さっぱり仕事にならなかったくらいで ギャグは笑えないし まともに描くとヘビーに過ぎるし〉と答え〈マンガなど描いている場合なのか〉と自問する。作者の問いは、あるいは多くのマンガ家を襲った想念かもしれない。米国の9・11がそうであったように、飛びぬけた破壊的事態はマンガ家や作家に「無力感」を与え、自分達が空想の世界を作っているに過ぎないことを思い知らされる。
※9・11後、アメリカではコミックスのヒーローへの失望や絶望が語られ、現実世界で活躍した消防士がヒーローとなるコミックが生まれた。小田切博『戦争はいかに「まんが」を変えるか アメリカンコミックスの変貌』(NTT出版 2007年)では、自分は〈生白いコミックスファンの負け犬〉だがテロリストと闘うという言説や〈リストカッターで病気の私〉だけど、9・11が夢だったらと語るエッセイ・マンガの例を引き、彼らの罪悪感に触れつつ、〈「9・11」の直接的な影響のもとで描かれた作品が「空想の否定」や「表現への幻滅」をさらけ出してしまっている〉(114p)とし、それは〈不可避〉だったろうと書かれている。
また、新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』(97~01年)の暴力的攻撃性には、95年の阪神大震災、オウム・サリン事件の、マンガやアニメではない現実の圧倒的な破壊と暴力の衝撃後、「虚構(フィクション)の無力」→「虚構の暴力は現実そのそれに拮抗できるか」という問いがあるように思える。
図版14 62p 鈴木は、やがてごく身近な、外出中だった妻や娘のことを思い出し、浦安の液状化被害を取材して、TVで報道される被災地だけがすべてではないことを示唆しつつ、絶望的な現状の中でも〈不思議と絶望ってしないもんだなぁって思うね〉とつぶやく。〈生きるってことは一日でも長く生き延びるということの繰り返しなんだよね〉と続け、そのことをTVやマンガや笑いで忘れていいいのだと考える。〈そうして時間が経って少しずついいほうに進んでいければ〉と。バランスのとれた受け入れの枠組みだが、そのあとの〈最後の箱の中に残るのは〉〈「放射性破棄物」だったらやですね〉というオチは、笑えない人も多いだろう。この主題がマンガにとっても困難なものであることを示している。が、この作品の方向は、このような事態に対して実際的に無力に思えるマンガ(あるいはフィクションや空想、仮想の世界の産出)には、現実に対してほぼ無力であるがゆえの「娯楽」「慰安」という力があることを、示唆している。
マンガには「たかがマンガ」であることのよさもあれば、「されどマンガ」といいうる価値もある。こうした事態に対して、そのバランスを示唆できるのは、マンガの成熟した力量を感じる。
7)さいごに
@daijapan 為末 大
罪悪感にかられて日々を疎かにしないでください。不謹慎という言葉を恐れて人を笑顔にするのを忘れないでください。どんな仕事であれいつもと同じ事を淡々と続ける事が日本の力になります。