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夏目房之介の「で?」

日本近代文学館 夏の文学講座「手塚治虫 いのちのかたち」

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本日26日午後1~2時、日本近代文学館の夏の文学講座「いのち」の「手塚治虫 いのちのかたち」講義、終了。いやあ、1時間っていうのは、あまりやりなれないので、ちょっと早目に進めたら、逆に10分ほど余り気味になった。なので、例によってアドリブで手塚から70年代以降の話、さらに最近のことにも触れて終えた。会場、ほぼ60代以上なので、どこまで理解されたかは不明だが、手ごたえは悪くなかった気がする。

終わって控室に戻ったら、次の講義担当の落合恵子さんに、本当に久しぶりにお会いした。落合さんに初めてお会いしたのは、かつて僕が出版社に勤めていた20代の頃で、双葉社の知り合いの編集者と一緒だったと思う。おぼえていてくださった。少し歓談しました。

というわけで、一応レジュメを以下にペースト。

2011.7.26 日本近代文学館 夏の文学講座「いのち」 手塚治虫 いのちのかたち夏目房之介

1)手塚治虫の死 なぜ死の直前までマンガを描こうとしたのか

1989(平成元)年29日 手塚治虫死去 1928(昭和3)年宝塚生 60歳 ※同年 昭和天皇、美空ひばり、田河水泡ら死去 天安門事件、東西ドイツの壁崩壊 敗戦直後デビュー 膨大なマンガ作品を残し、TVアニメ時代を招来し、最後まで旺盛に創作

手塚治虫は戦後のマンガ、アニメ、そして大衆文化の「生命力」を象徴する作家だった

最後の入院の時ですら、病室に仕事を持ち込んでいました。手を動かせればベッドで原稿を描き、手が動かなければスタッフを呼んで口述で仕事を伝えました。看病に付き添っていた母に聞いた話ですが、父は意識がもうろうとした状態でも、ふとベッドから起き上がると隣室へ行こうとするのです。そこに仕事場があると錯覚しているのです。〉手塚真『天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫』ソニー・マガジンズ 2003年 184p 

もし私がいい妻だったとしたら、それは夫の仕事にブレーキをかけなかったことだと思います。もし悪い妻だったとしたら、夫の仕事にブレーキをかけてあげられなかったことだと思います。〉手塚悦子 「TOUCH89228日号 一億人の手塚治虫編集委員会編『一億人の手塚治虫』JICC出版局 89年 555p

図版1 手塚『ブッダ』 「希望の友」「少年ワールド」「コミックトム」72~83年 潮出版 文庫12巻 93年 248p 

悟ったはずのブッダ(覚者)が死後を思い悩む場面 聖人君子としてのブッダは魅力がない 矛盾に悩むブッダこそが手塚的

2)引き裂かれた矛盾 「生命」とニヒリズム

手塚マンガは様々な矛盾する項の対立と運動で描かれた ユートピアと反ユートピア

図版2 『ジャングル大帝』 学童社「漫画少年」50~54年 のち60年代に自身で改稿 学童社版1巻 51年 名著刊行会復刻版 105p レオがアフリカの動物達に音楽を教える場面 

人語を話す動物の文明化と人間との交流(ユートピア)→人間の欲望と挫折(ニヒリズム)

幼少期的なユートピア性(宝塚、ディズニー映画、マンガなどから受け取ったもの)

青年的問題意識(戦争体験、青年期の自己否定、戦後映画の影響など)

『鉄腕アトム』の矛盾〈成長しない少年キャラクターを描き続けた、手塚治虫の“心の中の大人”〉石上三登志「アトム大使の不安な未来」『底本 手塚治虫の世界』東京創元社 03年 91p

3)「死」を目前にした少年手塚 戦争体験

手塚マンガの「生命」は、矛盾をそれとして持ち続ける永久運動だった

45年(16歳)軍需工場で大阪大空襲に会う 〈きな臭い黒い雨が降りしきり、淀川堤は死体や瓦礫の山で、ことに大橋の下は、避難した人々の上へ直撃弾が落ちて、折り重なって黒焦げになっていた。牛が一頭、半分埋まって、ビフテキのような匂いをただよわせていた。ぼくは、もう沢山だと思った。もう結構。これは、この世の現象じゃない。作り話だ。漫画かもしれない。おれは、その漫画のその他大勢のひとりにちがいない。それなら、早いとこ終わりになってもらいたい。〉手塚治虫『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝1』大和書房 79年 35p  その後、工場には戻らず自宅でひたすらマンガを描く

図版3 その頃の習作『幽霊男/勝利の日まで』朝日新聞社 「手塚治虫 過去と未来のイメージ展」図録 95年 101p 悪い博士に作られたロボット「プポ」の告白と死の場面 〈ワレワレゴヒャクニンハ ヒガナイチニチ ハタラカサレ コキツカハレテ サビシク コハレテユクノヲ マッテヰルノデスガ、イッソダレカ イッペンデ コハシテクレナイカ〉同上99p

→ヒゲオヤジに自分の同胞を壊してくれるように依頼 20歳まで生きると思っていない当時の「軍国少年」の抑圧された生命と自己否定的心情 ロボットや「人間ならざる人間のような存在」の悲劇は戦後手塚マンガに継承

山田風太郎『戦中派不戦日記』など参照 

図版4 手塚治虫『紙の砦』「週刊少年キング」75年 大都社 77年 44p 敗戦による突然の「解放」に「マンガを書くぞっ」と叫ぶ手塚少年のイメージ 〈――敗戦だ!―― / ――終わったんだ、終わったんだ―― / ぼくはとっさに、こりゃ、もしかしたら漫画家になれるかもしれんぞ、と思った。〉前掲『ぼくはマンガ家』40p

目前の「国のための死」を前提にした閉塞からの解放=マンガを描くこと=生きること

4)戦後手塚マンガ 矛盾の構造

図版5 『地底国の怪人』不二書房 48年 復刻版 147p 主要キャラのウサギ人間の死

誤解され排除されたウサギの耳男(少女科学者、浮浪児)が最後に〈ぼく人間だねえ〉といいつつ死ぬ場面 最近では戦後手塚マンガの出発点は『新宝島』(共著)ではなく、こちらだとされる 〈実は、手塚治虫の功績が讃えられなくてはならないのは、彼が単純な筋を追うだけの子どもマンガの世界に、小説や劇映画のような起伏に富んだ物語性を持ち込んだことにあるのだ。伏線を張り巡らせ、時には主要な登場人物が死んでしまうこともある。それは、手塚以前のストーリーマンガにはなかったものだ。/その意味で筆者は、手塚マンガのスタートラインを、単行本デビュー作『新宝島』[]ではなく、[]描き下ろし単行本『地底国の怪人』[]と考えている。〉中野晴行『そうだったのか手塚治虫 ――天才が見抜いていた日本人の本質』祥伝社新書 05年 31p

思春期真っ只中での戦争体験と無償の「自己表現」としてのマンガが、手塚を「子供に与えるマンガ」の作者ではなく「作家」としての側面を与え、彼にとってのマンガ=「生命」を描くために「死」を必要としたという仮説

図版6 『来るべき世界 宇宙大暗黒編』不二書房 51年 名著刊行会復刻版 140p

米ソ対立を思わせる大国同士の冷戦の中で宇宙から人類破滅の危機が到来し、最後の瞬間に対立する大国指導者同士が和解する名場面 破滅が和解と平和をもたらす矛盾 ユートピア/反ユートピアの構図 「死」によって「生命」がきわだつ瞬間 矛盾=マンガを描くこと=生命 夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社現代新書など参照

図版7 手塚戦争体験と「いのちのかたち」 模式図

幼少期~思春期のアンバランスに成長し膨張発展すべき生命 →「国のための死」(青年期)の抑圧 →戦争体験によるニヒリズム →幼少期ユートピアと青年期ニヒリズムの相克 →矛盾(柔らかい自己運動)のままの持続=相対性=戦後的主題?

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