オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

神奈川近代文学館で講演「孫から見た漱石の書画」

»

7月23日(土)は、神奈川近代文学館の「漱石と文人たちの書画展」にちなんだ記念講演「孫から見た漱石の書画」でした。なかなかさわやかな日で、ひさしぶりの横浜港が見える丘公園・フランス山はずいぶんきれいになっていた。たまに横浜散歩して中華街でメシ食ったりしたいなあ。

講演は、1時半から3時までだったのだが、どういうわけか僕の頭の中では「1時から2時半」とインプットされていて、レジュメをきっちり2時半に終える速度で進めてしまい、30分余ってしまった。でも、そこはそれアドリブ得意な僕なので、適当に話をつなげ、二件ほど質疑をして無事終了。講演のあと、講演会場で販売した拙著『書って何だろう?』(二玄社)のサイン会。50人ほどの人が並んでくれた。使ったのは筆ペン。
で、ハタとそのとき気付いた。考えてみれば「書画」に関する展示の講演だから、書をやっている方が多いはずなのだ。しまった! と思ったときはもう遅い。宛て書き用のお名前を書かれたメモを見ると、うわあ、僕より字のうまい方がほとんでではないか。こりゃ参った、と思いつつ、でもしょうがないので粛々とサインするほかなかった。とほほ。
書を遊びで始めたのはもう十年前。それから数年はけっこう書いていたけど、今は全然筆をとっていないので、あきらかに手が落ちている。すいません、偉そうなこといって・・・、と思いつつ、顔には出さずにサインし続けたのであった。僕の顔のマンガも入れたので、それでご勘弁願いたし。
ちなみに、展示の中には絵ハガキで漱石が描いたマンガもあったね(野村伝四宛て 明治37年)。

日曜は身体表象専攻のサマーキャンパス説明会があり、さて明日は日本近代文学館の講義だあ。

ご参考までに講演のレジュメを以下にペースト。

講演のレジュメ

2011.7.23 神奈川近代文学館「漱石と文人たちの書画展」記念講演 「孫から見た漱石の書画」 夏目房之介

1)孫の立場 不気味だった池上の祖母・鏡子の家にあったダルマの川下りの絵

 「達磨渡江図」大正2(’13) 46

 下手にしか見えない 「禅堂風景図」同上 滑り落ちそうな床 何かのナゾか?

 「秋景山水図」大正4(’15) まとまっているが、暗い 色を塗り重ねるのが楽しかったのでは?

 「山上有山図」大正11(’22) まあまあだが青い山が内臓みたい 津田青楓の指導後の処女作?

 絵を描くのが好きで、絵ハガキなども楽しそうに描いている

2)専門家の評価 津田青楓『漱石と十弟子』昭和23(’48)世界文庫より

「へんちくりんな画」〈南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の下に白い髭を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息している。そのまへに一匹の馬がいる。先ず馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先ず馬に近い[]馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。全体が濁った緑でぬりつぶされていいる。柳の下にはフンドシを干したやうに一條の川が流れている。〉79p 「柳蔭人馬」

 津田に油絵を習おうとして諦め、自己流に描いた淡彩画を見せたときの評

〈先生[漱石]はいつか妙なことを言ったことがあった。俺は不愉快だから画を描いて楽しむんだと。[]先生の画をかかれることは窓を開けて、いい空気を入れたいと言うことなんだ。〉86p

〈「先生は現実よりも空想の方がお好きでないんですか。小説では現実を取扱はなければならないんで、午後からは人里はなれた別荘にでも行くつもりで、あんな山の画が出きるんじゃないでせうか」〉136p 問いに答えて

 津田に習い始め、後にはなかなかうまくなっているが、趣味の範囲は出ない あまり持ちあげるほどでもない

3)青楓の評した漱石の書

先生は才気の横溢した小器用な字は嫌いのようだった154p →良寛は好き 展覧会後、書が変わった

先生は狭い道を窮屈にあるくことは出きない人なのだ。そこに先生の天賦の器用さがある。しかし先生はその器用さを手ばなしに自由に駆け出させないようにブレーキをかけて、手綱を引きしめている。そこから「守拙」といふ標語が出てくる。155p

先生は専門的[くろうと]よりも素人であることを誇りとしていられるかに見られた。157p

専門家は技巧に走り拘泥する そういう意味では漱石は書も画も素人の域を出なかった(青楓の評

4)漱石の書の印象

 書に興味のなかった以前はまったくわからなかったが、『書の宇宙』(二玄社96~00年)連載後、遊びで書を始めて、うまいな、いいな、と感じるように →夏目『書って何だろう?』二玄社’10

漢詩幅「月落不離天」年代不詳 きわどいところであざとさを逃れる緊張感 余白の豊かさ

自宅に四字幅「夜静庭寒」コピー 大正4’15)頃 48歳 静かで寒い印象だが、見あきない

晩年 明治43(’10)修善寺の大患後、胃潰瘍に悩み、この年『硝子戸の中』『道草』連載

石川九楊は「良寛型」と評す 〈中でも最も静寂で余韻のある、妙に忘れ難い書である。[]筆の回転、開閉を抑えて、棒状の線をぬーっと出現させたものがこの類。[略 懸命さが出ると武者小路実篤などになるが]懸命さを造形しないで、我慢、禁欲するところに空洞が生まれ、韻[ひび]きが増幅されるのだろう。〉「墨」特集「文人 夏目漱石」847月号 芸術新聞社 33p

「色々な書を知ったうえで、でもまるで知らないかのように変哲もないズボッとした線で書いております」という抑制された「うまさ」を感じる〉夏目房之介「読めなかった祖父の直筆原稿」 夏目漱石『直筆で読む「坊っちゃん」』集英社新書(’07)解説 378p

つまり漱石という人は、「どうでぇ、うめぇだろ」と言っているかのように見る者に感じさせたり、鬼面人を驚かすような「芸術」の表現をあまり好まず、できればそう見えないことを望んだのかもしれない。自分の「芸術」的創作の快感は自覚していただろうが、潔癖な自己抑制が働き、ハッタリをかましたくしたくないタイプなのだ。〉同上 379p

何か(表現上の革新とか積み重ね)がそこに「有る」のではなく、「無い」ことで生まれる「良さ」

俳句幅「釣鐘のうなる許に埜分哉」明治39(’06) 39歳 少し若い頃のユーモア感覚?

 「うなる」のクルクル回る字がかわいい 晩年の書にはない速度と回転の面白さ

5)まとめ 稚拙と達者の差はあるが、漱石の書画には小説のぎりぎり自分を追い込んでネジを巻くような厳しい世界から離れようとする「遊び」感覚がある

Comment(1)