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夏目房之介の「で?」

先週明石で講演、これからも・・・

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先週土曜、明石市の中崎公会堂百周年記念の講演に行ってきた。ここは百年前、漱石が大阪朝日新聞の連続講演の依頼を受けて回った講演場所のひとつで、ほぼ当時のままの建築が残っている。お寺を建てた大工さんが建てたそうで、りっぱな格天井にシャンデリア(当時)という、洋風を意識した興味深い建物だった。僕の講演は「道楽と職業 漱石の孫の場合」と題して、漱石が当地でやった「道楽と職業」という講演について話した。最後に、漱石と父の死の間際の話をして締めようとしたら、なぜか突然感極まってしまい、泣きそうになって言葉が出ず「申し訳ありません」とあいさつして終わってしまった。こんなことは初めてだ。桂文楽じゃないが「勉強しなおしてまいります」みたいな終わり方だった。でも、それまでは快調に笑いもあったし、楽しんでくれたんじゃないかと思うが、いや、本当にすみませんでした。参考までに講演用のメモを、あとにペーストしておく。ただし、実際の講演では順序も違い、余談も多いので、まったくこの通りではない。

http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/0004065963.shtml

それから、今後も講演や対談の予定があるので、ついでに書いておく。

7月23日(土)神奈川近代文学館
 13:30開演 「漱石と文人たちの書画」展記念講演「孫から見た漱石の書画」

http://www.kanabun.or.jp/0b00.html

7月26日(火) 有楽町よみうりホール 
 13:00開演 日本近代文学館「夏の文学教室」テーマ「いのち」 「手塚治虫 いのちのかたち」

9月16日(金) 新宿住友ビル 朝日カルチャーセンター 茂木健一郎氏と対談 
 18:30開講 「漱石に学ぶ、心の平穏を得る方法」

2011.5.14 明石市立中崎公会堂100周年記念トーク「道楽と職業 漱石の孫の場合」夏目房之介

1)漱石の明石講演の頃

1907(明治40)年4月 大学教師→朝日新聞入社6月長男純一誕生

1910(明治43)年8月 修善寺の大患

1911(明治44)年 2月入院中博士号辞退

8月(44歳) 大阪朝日新聞主催関西講演会「道楽と職業」明石 「現代日本の開化」和歌山(和歌の浦) 「中味と形式」堺 「文芸と道徳」大阪

大阪講演後、大阪湯川胃腸病院入院 鏡子夫人かけつける のち入退院を繰り返す

〈病状は案じたほどの大事でもありませんでしたが、なにしろ去年苦い経験をしていますので、始めは流動食ばかりあてがって大事をとりました。そのこと「大阪朝日」の社員でした長谷川如是閑さんなどがお見舞いにおいでになって、どうも夏目君は不養生だ、この間和歌の浦で飯蛸(いいだこ)をしきりにたべるから、そんな不消化ものをたべてだいじょうぶですかと心配してあげても、だいじょうぶだといってしきりに喰べるんだからというころに、夏目も寝ながら、ナーニ、飯蛸のせいじゃないよと抗議を申し込んでおりました。〉夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(1926(昭和3)年改造社刊 94年文春文庫版 295~296p

1916(大正5)年12月逝去(49歳) 純一9歳

1911年 大逆事件判決(1月) 辛亥革命 1914年 第一次世界大戦

2)講演「道楽と職業」について

現代社会の職業分化と多様化 〈理論的には伝統社会では、誰でもが自分に必要なものを自分で作り、使用し消費したはずだが、社会が進むと誰もが他人に頼って生きるようになる。/足袋を作れない自分(漱石)が小説を書くように、職業の細分化は、それぞれの人を社会的に不完全な存在にしている(マルクスなら「疎外」というかもしれない)。博士などとよばれる人も、狭い分野がわかるだけで、むしろ極端に不完全な存在である。世間的に広いものはわからない。なのに無暗に人は尊敬したがる。〉夏目房之介『孫が読む漱石』実業之日本社 2006年 218~219p

★博士号辞退問題の影響 〈それだから私は博士を断りました。しかしあなた方は――手を叩いたって駄目です。例えば明石なら明石に医学博士が開業する、片方に医学士があるとする。そうすると医学博士の方へ行くでしょう。いくら手を叩いたって仕方がない、誤魔化されるのです。〉漱石「道楽と職業」『私の個人主義』講談社学術文庫78年 25p 「知」のもつ権力

卑近な事例を引き、俗な言葉を使って、論理的に話を展開 ただし落語口調だった?

漱石は講演速記録を大幅に改稿した(例「作家の態度」〈題は何でもようがすけれどもネ〉〈ようがすか〉など) →が、改稿も話し言葉を活かしたリズムのある江戸弁的

★自給自足的古代経済→近代的分業制 「他人にために労する」労働〈人の御機嫌を取れば

開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分かれれば分かれるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起こるのであります〉 

★「職業」=近代社会での疎外労働? 他人本位 〈一般社会が本尊

 →〈孤立支離の弊を何とかして矯めなければならなくなる〉一般世間を了解するための方法

 たとえば講演を聴くとか、文学に親しむとか、酒食で交流するとか

★「道楽」=〈不足な訴が内部から萌(きざ)して来て何となく充分に人間的な心持が味わえない

★「文学書」のすすめ=〈階級のいかんにかかわらず赤裸々の人間を赤裸々に結びつけて[]吾人が人間として相互に結びつくためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです

★科学者哲学者芸術家など=自己本位にしか成り立たない道楽的職業

社会の進化(文明化)を窮屈に感じ、疎外感を感じる漱石の社会論 「自己本位」の必然性

 ロンドンでの苦闘を経て獲得した文明論的観点 近代社会と実存的自由の矛盾 文学の位置

★わがまま〈私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない〉=芸術家、文学者の境地=〈芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである〉 知的、芸術的な追及の必然性?

3)孫の眼から見た「道楽と職業」

「わがまま」を職業ではなく地で行ってしまった父純一 1926(大正15)18歳でベルリンに遊学〈純一さんはひどい脚気をやつてから學問の方は中止し好きなヴァイオリンにこり出し〉「夏目漱石さんの遺子がひとり旅 ヴァイオリン抱へてドイツへ修行に」東京朝日新聞同年1月7日

1939(昭和14)年帰国 漱石の印税浪費のお遊び(漱石死後の円本ブームなど) →のち妻の稼ぎに頼り、毎日テニス 著作権問題? 1999(平成11)年2月、91歳で大往生 道楽で人生送る

どちらが幸せ? 父の死直前の言葉「俺は幸せだ」 死に親しんだ漱石も、生前は不幸だったが

僕=道楽(マンガ)の道をひたすら好きで歩いてきたら、職業=大学教授になっていた

道楽要素が職業に含まれる含有率上昇(大衆消費社会の必然 「楽しい」が商売に)

しかし、職業なしの道楽も父を見ていると「辛い」(わがままの不徳)

祖父漱石のようにシリアスでもなく、父のように放埓でもなく、いい加減がベスト

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