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夏目房之介の「で?」

李先生の教え方で思ったこと

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仲間うちで練習していたら、連日李先生の講習会に出た人たちが「今日はふわふわして熊形走圏をしても全然落ちない」と愚痴っていた。僕はそうでもなかったので、おそらく李先生の講習会に木、土、日と連続して出たせいじゃないかと思うが(僕は、それをやると消耗して、そのときはいいが、あとでガクッとくるので、週に1回が基本、出ても2回)、前にも同様に出たときはそうはならなかったという。
気候もあるし、体調もあるので、一概にはいえないけれども、ちょっと想像できることは、一時期、雨の多かった時の練習と、つい先日のそれでは、内容が違ったのじゃないか、ということだ。「春は気が盛んになり、自然も人も、のびる時期なので、そういう練習をする」と李先生はいっていたので、あるいは天気がよかったので気血を使い消耗する練習をしたのではないかと思った。そうすると、直後には気血が不足し、ふわふわする。これは、李先生的な語りでいえば、当然のことになる。そうして、さらに練習を日々続けることで、新たな気血を育てる、という理屈になるのかもしれない。
なぜ、そんな想像をしたかというと、僕自身、調子のいいときには、うまく足腰の方に「落ちる」感覚があって、しばらくすると足先を充分伸ばして、蹴るように下腿を進めることができる。これは、うまくできるときと、できないときがある。うまくできるときは、それをやっても上半身は揺らがず、足首の上部に気血が通る感覚になる。これが、じつに気持ちがいい。ふわふわしているときはできないし、やろうとすると不安定になる。李先生的にいえば、気血が充実しているからできる、ということになる。
もし、僕らが日常使っている言語で言い換えるとすれば、足首や足先の筋肉や筋にうまく意識が届くほど、鍛えられた、というところだろうか。でも、疲れたり、バランスが崩れてたりすれば、じつはけっこう精妙な動きなので、できないことになる。しかし、丹田の充実と関連している感覚もあるので、それについては日常言語に直すことが、なかなかできない。

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