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夏目房之介の「で?」

講義8「戦後マンガ論の展開」レジュメ

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2010後期.10  現代マンガ学講義8 戦後マンガ論の展開

1)「漫画」と「笑い」の分離
60年前後~ 白土三平『忍者武芸帳』59~62年発行 大衆文化=マンガを論ずる知識層の前面化
文芸評論家・尾崎秀樹(28年生)の場合
「笑い」=本質規定 〈まんがをまんがたらしめているのは、笑いだ。〉尾崎「笑い言語へのアタック -まんがへの距離感―」No.1 「COM」虫プロ商事 68年6月号 87~88p 〈ただ残念なことはまんが論がまんがの外側から論じられて、なかなか内側から論じられないことである。 [略]まんが自体の方法論を確立しなくてはならないが、やっとまんが家の作品研究が緒についた現在の段階では、それも夢のような話だ。〉尾崎「笑い言語へのアタック -笑いの表現―」最終回 「COM」虫プロ商事 69年7月号 142~143p 下線引用者[以下同]
★マンガの「内側」認識 世代的「マンガ像」の変容 ★他、鶴見俊輔、佐藤忠男、草森紳一、副田義也
★参考図版 「COM」68年3月号 「思想の科学」No.95 78年9月号

2)メディアとしてのマンガ 脱「笑い」「諷刺」 「劇画」の登場 マンガをマンガそのものとして語る
美術評論家・石子順造(29年生)の場合 ※「ガロ」に依る石子主催「漫画主義」同人は40年代生
★参考図版 「漫画主義」12号 74年4月
〈[劇画とは]笑いの要素がない、物語性をもった、実録的な連続マンガということになろうか。読者対象が主として青年層にあるという点も「劇画」の特徴だろう〉石子『戦後マンガ史ノート』紀伊国屋新書 75年 12p
〈第一は、マンガを複製作品としてとらえることである。 [略]一定量が複製され、流布されることによってマンガである[略]第二は、マンガを作品表現として完結的にみるのでは足りず、いわばメディアとしてとらえる視点である。/第三は、どのようなストーリーによって展開されようと、マンガは、まず絵と言葉によって表現されるのであって、独自の表現と構造をもっているはずだ〉石子『現代マンガの思想』太平出版社 70年 23~24p
★「マンガ表現構造論」の提起 ★他、清水勲(漫画史)、小野耕世(海外マンガ)

3)コマ=表現形式の発見 
マンガ家・峠あかね(真崎守)(41年生)
〈B型[コマを持つマンガ]の本質は、ストーリー・まんが・劇・画という話と絵にあるのではなく、コマそのものにあったのだ。〉(峠「コマ画のオリジナルな世界」「COM」68年3月号 80~82p) ★「マンガ表現論」の先駆

3)戦後世代の内在的マンガ論へ 70~80年代 
コミケ初代代表・霜月たかなか(原田央男)(51年生)の場合
〈 [マンガ世代は]青年期に劇画を読むようになったという意味で、戦後マンガ史の主要読者層として、その成長に伴って出版マンガが展開してきた世代、第二に、その表現手段としてマンガを選んだ初めての世代であるということ〉〈彼等[既存のマンガ批評者=斎藤次郎、石子順造ら]にとってマンガは常に対象であり、外にあるものでしかなかったのだ。〉『迷宮’75 マニア運動体論』批評集団 迷宮’75 霜月『コミックマーケット創世記』朝日新聞社 08年 191p、209p
コミケ元代表・米沢嘉博(53年生)の場合
〈おそらく、マンガとは“私性”そのものなのだ。 [略]/マンガは「私」と「私」、つまり描き手と読み手が出会う場であるばかりでなく、重なる場でもある。[略]マンガを読むこととは、マンガを描くことの追体験であることがそこから出てくる。〉(米沢「マンガの快楽 -風景・線・女体・グロテスク」 米沢編『マンガ批評宣言』亜紀書房 87年 178~179p) ★先行世代の全否定 「ぼくらのマンガ」(石子~村上知彦)言説 ★他、橋本治、中島梓
★参考図版 「迷宮80 漫画新批評大系」vol.12  80年1月

4)記号論的理解
評論家・呉智英(46年生)の場合
定義〈コマを構成単位とする物語進行のある絵 [略]「複製芸術」であること〉呉『現代マンガの全体像』情報センター出版局 86年 95~97p 「近代」にまつろわぬ「周縁」的文化(文化人類学・山口昌男)
図1 [言語学的・記号論的考察] 「線条性」「現示性」 〈マンガの隆盛には[略]日本語の言語構造が関係しているのではないか〉同上104p 比較文化論→日本文化論 ★記号論的視角の提示

5)90年代「マンガ表現論」へ
マンガ家コラムニスト・夏目房之介(50年生)の場合 
〈これまでマンガ批評のほとんどは、マンガの語るストーリー上のテーマを分析することで批評を成り立たせようとしてきた。[略]しかし、[略]語られたテーマがそのまま〈作家性〉や〈思想〉を示すことにはならない。〉夏目『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房 92年 11p 〈だから僕はマンガの「思想」を描線やコマのなかに、その生理みたいな場所にみたいんです。〉夏目『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房 95年 124p
 前史 『夏目房之介の漫画学』 大和書房 85年 模写によるマンガ批評
★参考図版 夏目『夏目房之介の漫画学 マンガでマンガを読む』 のち増補
比較文学、映画史研究者・四方田犬彦(53年生)の場合
〈だがわたしが念頭においているのは、こうした[漫画作品の物語、事物を抽出して分析する]評論が可能になるにあたってさらに前段階で検討すべきこと、すなわち漫画を漫画たらしめている内的法則の検討である。〉〈わたしが赴こうとしているのは、漫画に固有の表象システムの領域である。〉四方田『漫画原論』筑摩書房 94年 10~11p
 ★マンガの内部から「マンガをマンガとして語る」言葉=方法論へ 語るべき「マンガ」の自明な領域の確立
 ★他、竹内オサム(迷宮→大学研究者)

6)大塚英志(58年生)の登場 ロリコンマンガ誌編集者→評論家 おたく世代のマンガ論 
〈〈読者〉である自分が死した後、ぼくは初めて〈まんが〉について語りだす。〉〈〈まんが〉という存在が、現実との関連性を失ったまま、読者にとって一種の〈疑似現実[ルビ=シュミラークル]〉と化しつつあるという事態と同様の状況は、アニメーションの分野でも指摘されている。〉大塚『「まんが」の構造 商品/テキスト/現象』弓立社 87年 4p,9p
 マンガを含む氾濫する「商品」の中で〈疑似現実〉化した「美少女」→ マンガ市場・領域の確立と巨大化
〈ぼくが〈まんが〉から読みとろうとしたのは、「作者-読者間における〈まんが〉の意味」以外の意味であったように思う。〉大塚『システムと儀式』本の雑誌社 88年 20p 流通消費論、成長儀式論、「少女」論
〈ぼくは日本の戦後史におけるフェミニズムの発生と大衆化という現象と、24年組と呼ばれる団塊世代の少女まんが家の登場をきっかけとする少女まんがの変容は、社会史的に同じ背景を有すると考える。〉大塚「〈母性〉との和解をさぐる 萩尾望都の葛藤」「付記」 AERA Mook「コミック学のみかた。」朝日新聞社 97年 68p
マンガを含む状況(流通消費)、時代社会に「マンガ」領域の存在を開いて分析する視角 
 マンガの自明化と閉じたマンガ論批判(団塊世代?批判) ★イデオロギー、制度としてのマンガ

〈手塚治虫的な身体表現パターンの一つに、キャラクターがガケから落ちてもその次のコマでは包帯をまいて出てくるが、その次のコマではそれもなくなって無傷であるというものがある。これはまさに身体が記号であるが故に起きうる現象なのだが、ロリコンコミックにおける記号的身体も、描き手や読み手は無自覚のうちにガケから落ちてもケガをしないのと同じ感覚で受けとめられ被虐の対象になっていたのではないか。〉大塚『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』法蔵館 94年 29p 「記号的身体」論による戦後マンガ・アニメ史(おたく的受容?)批判
図2 同上 57,59p 少年、少女マンガの表現の差異
〈フキダシの外の文字情報に表現の比重が置かれているか否かが少年まんがと少女まんがを区別する恐らくは唯一の基準なのである。〉〈少女まんがが〈内面〉を発見し、その言語的な描写の仕方が定型化されるのは七〇年代半ば、萩尾望都、大島弓子ら〈24年組〉の手によってである。〉同上 61p,65p 「内面の発見」(近代イデオロギー)の発見
 柄谷行人『日本近代文学の起源』など、近代文学論からの援用→ ★日本文化論、戦後社会論
 ★大塚同世代 岡田斗司夫、竹熊健太郎、唐沢俊一、大月隆寛、藤本由香里

7)補足的に 少女マンガのコマ構成
図3 レイヤー(階層)構造としての少女マンガ 夏目他『マンガの読み方』宝島社 95年 180~181p
図4 時間分節を緩めた表現 夏目『マンガはなぜ面白いのか その表現と文法』NHK出版 97年 157p
図5 階層化した間白、視線の回転 同上 162~163p 大塚とは異なる視角からの「少女マンガ」の特異性分析 
 戦後世代マンガ論を駆動した少女マンガ(24年組)→おたく的教養化→表現論、戦後史論としての「少女マンガ」

8)メディア史的概観  総括する世代の登場 学術研究の領域へ(2000年代)
メディア論研究者・瓜生吉則(71年生)の整理
〈「マンガ読者」の身体性を絡め取るコミュニケーションへのまなざし(鶴見・石子)を批判する中で〈わたし〉の「マンガ読者」への繰り込み(村上・米沢ら)が起こり、それを前提として〈表現論〉(夏目・四方田)が登場してきた、という流れでまとめることは可能である。ただし、この変遷は必ずしも「発展」を意味するわけではない。[略]むしろ「(マンガを描きー読むという)体験や行為」に対するリアリティが様々な形で言葉にされてきた歴史として、「戦後マンガ論」を捉え返す視点が必要だろう。[略] 「(マンガを描きー読むという)体験や行為」が〈わたし〉によって担保される、つまり「マンガ表現」を通じて「ある意味が媒介されること」が前提にされているからこそ、「マンガ表現」の独自性が「意味」の位相でも論証可能となるのだ。〉〈マンガが「ある意味・思想の表現」として認知されるのは、そこに特定のコミュニケーションが成立しているからであって、その様相を通時的/共時的に問おうと思ったら、(方法論上の手続きでしかないにせよ)それを外側から見る必要が生まれる。しかし、その作業は〈表現論〉が最初に棚上げした部分なのだ。〉瓜生「マンガを語ることの〈現在〉」 吉見俊也編『メディア・スタディーズ』せりか書房 2000年 135~136p ★参考図版 『メディア・スタデイーズ』=論文集
 〈わたし〉語りによるマンガの自明化→マンガ現象の「外」からの視点 「表現論」の相対化
 ★メディア・ミックス的市場の巨大化 海外からの視点導入(S・マクラウド『マンガ学』美術出版社 98年訳(原著『UNDERSTANDING COMICS THE INVISIBLE ART』94年)
★参考図版 夏目『マンガと「戦争」』 マクラウド『マンガ学』

9)表現論の新展開
マンガ評論家、ライター・伊藤剛(67年生)『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版 2005年 夏目、竹内オサム、大塚英志、東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社新書 01年)らを踏まえ新たな「表現論」を目指す 「マンガが面白くない」言説→80年代以降のマンガ変化に追いつかない限界指摘
作者/作品/読者関係-囲む環境=ジャンル、他ジャンル-社会 マンガ「内部」と同時に「外部」を捉える視点
図6 『テヅカ イズ』72~74p 〈作品は時間を超えて残り、ときとして作者から遠く離れる。それが作られたときの同時代性は忘れられ、あとから想像されるしかなくなる。そのことも、たとえばジャンル平面上を作品が移動していくというイメージでとらえることができる。[略]かくして、表現論、受容論、テクスト論、作家論、反映論は、お互いに――それぞれの論としての手続きが妥当なものである限り――無矛盾なものとして接合される。〉同上 74~75p 既成のマンガ論を批判的に総合検討しようという意思 

「キャラ」「キャラクター」論 「キャラ」≒大塚「記号的身体」 原テキストを離れうる図像=人格のようなもの 「キャラクター」=原テキストに属する登場人物(人生? →「キャラ」「コマ構造」「言葉」へ
1)マンガ図像の持つ原初的な性格の提示 2)作品を離れてジャンル、他ジャンルに浮遊する要素の摘出
※「キャラクター」概念のふり幅に注目し、要素を摘出したが、やや用語上の混乱をもたらす

「フレームの不確定性」論 手塚=「映画的手法」導入=戦後マンガの元祖神話の批判、相対化→「映画的手法」=「コマ枠=映画ショットのフレーム(スクリーン)」→少女マンガのレイアー構造、コマの混交、枠の消滅
図7 大友克洋『童夢』 『テヅカ イズ』220p 図8 萩尾望都、高橋真琴 同上228~229p
〈マンガでは「フレーム」は、厳密には「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。この不確定性こそが、マンガをマンガたらしめており、かつ「とらえにくさ」をもたらしている。〉『テヅカ イズ』199~200p

WEBのマンガ批評家・泉信行(イズミノ・ウユキ)(80年生)『漫画をめくる冒険』ピアノ・ファイア・パブリッシング 上巻2008年 下巻2009年 同人誌 物質としてのメディアに注目、読者の視点からの「表現論」
〈漫画の絵やコマは、[映画のように]同じ場所を交代するように表示されるのではなく、「平面的に並びあって」存在しています[図2]。時間軸ではなく、平面軸に表示されているということ――それこそが、漫画を「アニメ」や「紙芝居」などと区別できる最大のポイントかもしれません。
漫画の紙面は、常に真正面から眺められるものではない
漫画の中には、右から左へと流れる力がある
一つめは「アングルの問題、二つめは「ベクトルの問題」です。」同上上巻9p
図8 同上8p
〈仮想アングル〉 右側の人物斜め横顔は読者と〈同一化〉し、自分自身=味方という意味に転化しやすい
         左側は同じく対面する相手、敵に転化しやすい マンガの作品内で方向を歪める視線
〈見えないベクトル〉 仮想アングルの視線の流れがコマ内のベクトル感に変わる
「読み」の右→左方向の力がマンガ内現象を加速
図9 同上14~15p
「みる」ことの区別 〈見る〉=読者がマンガの絵や文字を見る 〈視る〉=登場人物がマンガ内世界を視る
マンガをみる視線の含む外在性と作品内在性の峻別と関係づけ 読者-作品関係の変化(私語り→対象化
〈身体離脱ショット〉 〈視点キャラ〉に同化した画像の提示 斜め顔画像による登場人物への同一化
図10 同上43~45p 『グラップラー刃牙』『賭博黙示録カイジ』 他者、自己像の変容
 登場人物(≒読者)の心的内容を「作品内現実」のレベルで表示する 読者視線の内面化?
マンガの物語を構成する「同一化」「異化」現象を「視点」論から分析(竹内オサムの議論を継承発展
「視線誘導」(夏目、菅野博之『漫画のスキマ』美術出版社)→「視線力学」へ

〈重要な点は、「視点」の問題を語る際に、読者がどのように「見る」のかという観点を導入していることである。「視線の力学」を前提とした読み換えによって、「同一化技法」論では処理できなかった「フレームの不確定性」の概念とも接続可能な「視点」論が構築されており、「映画的」か否かといった問題が乗り越えられ、マンガというメディア固有の分析視角が提供されているのである。〉岩下朋世(「「視る」ための手がかりはどこにあるか -マンガにおける「視点」をめぐって」 泉信行他『フィクション・ハンドブック』ピアノ・ファイア・パブリッシング 09年所収 岩下朋世の仕事→ http://www.geocities.jp/iwa_jose/works.html
博士論文:手塚治虫の少女マンガ作品における表現の機構(2008年、東北大学大学院情報科学研究科に提出)含む 

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