備忘録 忍者ブームのこと
しばらく前に「からだの文化」の発表で、時代物マンガを扱い、そこで白土三平と忍者ブームに触れた。「忍者」や「忍法」という言葉は、少なくともマンガにおいては白土マンガ以来普及したもので、それ以前は「忍術使い」であり「忍術」だった(と思う)。そのことはかつて『夏目房之介の漫画学』所収「忍術使いから忍者へ」(初出「コミック・ボックス」83年)でも書いている。が、白土の忍者物は、戦後時代小説の忍者ブームの中で描かれている。小説の忍法物との影響関係については、よくわからない。以前から、これが気になっていた。それで、いくつかの小説を読んでみた。年表にすると、こうなる。
1955(S30)年頃~ 時代小説ブーム ※黒装束の忍者登場 未読
1956(S31)~57年 五味康祐『柳生武芸帳』「週刊新潮」連載 ※柳生忍者登場 未読
1957(S32)~58年 白土三平『嵐の忍者』『甲賀忍法帖』
1958(S33)12月号~59年11月号 山田風太郎『甲賀忍法帖』光文社「面白倶楽部」連載 既読
1959(S34)年 足立巻一『忍術』(平凡社)刊行 ※村山知義が参考文献として言及 未読
〃 司馬遼太郎『梟の城』刊行 直木賞受賞 既読
〃 ~66年 白土三平『忍者旋風』シリーズ
〃 ~62年 白土三平『忍者武芸帳 影丸伝』
1960(S35)年 柴田錬三郎『赤い影法師』 ※トーナメント式忍法小説 未読
〃 11月~62年5月 村山知義『忍びの者』第一部「アカハタ」日曜版連載 既読
1961(S36)年~66年 横山光輝『伊賀の影丸』「週間少年サンデー」連載
1962(S37)年12月 山本薩夫監督、市川雷蔵主演『忍びの者』公開 BSで視聴
〃 ~65年 TVシリーズ『隠密剣士』放映
1963(S38)年 同上『続・忍びの者』公開 以下、66年まで『忍びの者 霧隠才蔵』『忍びの者 新・霧隠才蔵』公開 『続』のみBSで視聴
「忍者」「忍法」は、年表の限りでは57~58年に白土、山田が使っている。。もちろんそれ以前に用例があるかもしれず、厳密には戦前の立川文庫~講談社「少年講談」シリーズ、少年小説などを調べないとはっきりしたことはいえない。
けれど、用例の前後は主ではない。気になったのは、なぜ戦後に「忍者ブーム」が起きたのか、ということだった。その中で、敗戦時13歳だった白土三平が、おそらく戦前の少年小説も含めた様々な影響の成果として忍者マンガを描いた、ということだ。
僕の世代にとって「麻の実を植えて生えた麻の上を毎日飛ぶと跳躍力がつく」という修行法は白土マンガで学んだものだが、じつは戦前の少年小説や講談社の本ですでに存在していたようだ。先日、半藤一利さんとお会いしてお聞きしたら、「そういえば吉川英治の少年小説『天兵童子』(1937~40年「少年倶楽部」連載)に、体技としての忍術が出てきた。麻を飛ぶのもあった気がする」とおっしゃっていた。高橋康雄『少年小説の世界』(角川選書166 86年)によると『神州天馬侠』(1926年? 未読)にも、果心居士ほか忍術を使う登場人物が多数登場するという。事実、『忍びの者5』(岩波現代文庫)所収の木田元の解説には、『天兵』に麻飛びの修行法が書かれていたが、木田が当時住んでいた新京(満州)では麻の生育北限を越えており、悔しい思いをしたとある。その解説には、次のように書かれている。
〈戦前はもっぱら「忍術」と「忍術使い」だった。「忍法」「忍者」「忍びの者」といった呼び名はみな戦後のもので、村山知義や白土三平、山田風太郎の創案であろう。もっとも、吉川英治が「隠形の術」なんて言い方をしているから、一概にそうも言いきれないのかもしれない。/そのころ『少年倶楽部』に毎号『伊賀流の極意』『甲賀流の極意』といった本の広告が出ていた。〉同書318~319p
木田は小学生時代、講談社からこれらの本を取り寄せた。30~40ページのパンフレットで、「水の上を歩く方法」「天井を駆けぬける方法」「蟇になる方法」など、〈インチキのきわみ〉だったという。戦前の講談本などの影響が、戦後に時代小説の忍者に影響したのは間違いないだろう。
また、村山知義と白土三平の父・岡本唐貴はプロレタリア芸術運動で同じ運動の渦中にあったはずで、白土と村山も関係があったかもしれない。そうでなくとも「アカハタ」連載は読んでいただろうと思える。ただ、『忍びの者』には白土マンガとの共通点を見出すことができるが、それぞれの連載や掲載時期を比較しないと、どちらがどう影響を与えたかの可能性を語ることも難しい。それほど同時期に起きているともいえる。
とはいえ、戦前の吉川英治の小説は、あくまで立身出世的な求道的世界観を基礎に、剣道にせよ術にせよ、明朗な理念に沿って生真面目に捉えられていただろうと思われる。対して戦後の「忍者ブーム」では、むしろ「武士道」的な理念への批判・否定の媒介として「忍者」「忍法」を捉え、使っている。それが戦後的な意味になるだろうと思う。とりわけ、司馬の『梟の城』に顕著に感じるニヒリズムは、学徒出陣で満州に赴いた戦争体験を感じさせるものだった(直接戦争体験ではないが、村山は「日本民族の性格の形成」に興味があって『忍びの者』などの小説、戯曲を書いたという)。そこにあらわれる忍者たちは、しばしば、幼少児から仕込まれた忍者の資質を自ら苦笑する。そこに大上段の理念はなく、ひたすら技術者、職人のプライドがある。山田風太郎、村山知義にも、違った角度からこの国の戦争体験を反映しているようにも思われる。知識人だった彼らと比べると白土忍法には、はるかに雑多に戦前の忍術も使われているようだ。このあたりに、小説とマンガのメディアとしての違いをみることもできるかもしれない。