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夏目房之介の「で?」

戦後の大城のぼる

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「青虫」で何が驚いたって、戦後の大城のぼる作品でした。戦前、戦中の作品はいくつか復刻されて読めますが、戦後のものは古書以外見られない。僕は「青虫」で初めて戦後作品を目にしました。時代順に並べるとこんな感じ。

1954(昭和29)年9月20日 大城のぼる『少女白菊』集英社 おもしろ漫画文庫55
1955(昭和30)年6月12日 吉川英治、大城のぼる『神州天馬侠』同上89
1957(昭和32)年6月30日 大城のぼる『戦国鉄覆面』兎月書房 おもしろ長編漫画15
1959(昭和34)年1月号 大城のぼる『ロケットパンチスター』小学館「小学六年生」付録

『少女白菊』~『戦国鉄覆面』で目につくのは、異様なほどの細密な描写。背景が挿絵や絵物語風に描きこまれ、一見水木しげるかつげ義春のようだが、はるかに律儀な絵。それが、戦前の丸っこい、いかにも子ども向け漫画の線画と混じっている。とくに火炎の描写は迫力があり、思わず爆撃の体験の反映かと思わせる。

Photo  『少女白菊』は54年なので、もちろんまだ「劇画」は生まれていない。しかし、凄い。

Photo_2  もうひとつ、『少女白菊』には、こんな不思議な場面も。幻想的な描写なのだが、まるでバリの伝統絵画のような禍々しさがある。やっぱり「只者じゃないな」感満載だ。
また、大城が意外なほどに活劇描写がうまいことも今回確認。たとえば『神州天馬侠』の一場面。

Photo_3  上は左右見開きを使い、斬り込む僧(じつは不幸な少女白菊の兄、しかしてじつは許嫁!?)、下段右で斬りふせられる山賊。見事な構成。他にも、不思議の術、隠形の術を使う場面など、じつに見事(多分映画の演出に近い)。きっちりと重さや重心を描ける画力の上に、かなり動的な分節を見せる。一コマごとの完成度は、飛び抜けている。

でも、じつは今回驚いた作品はこれ。

Photo_4  「小学六年生」別冊付録のSF。
冒頭、なぜか星型のカワイイ「X宇宙人(のロボット?)フリー」が、地球の少年の頭に入っていることを告白。で、プラネタリウムに入って宇宙を観て興奮してしまう。頭から出て彼は突然、こんな詩的なことを述べ始める。

〈おお! 昔のすべてよ! 未来のすべてよ! おもえたちはみな一つの大宇宙のなかにとけあっているのだ 時間よ! 空間よ! だからおまえたちには はじめも おわりも ありゃあしないんだ 宇宙のすべては かぎりなく うつりかわっていくものさ・・・・・〉

ここには、子供向けということを忘れたような独白が感じられ、大城のぼるという作家が戦争をくぐってきてことの「何か」があるような気さえした。それほど唐突なのだ。
話は、宇宙に進出した地球人が宇宙空間でこの宇宙人と出会い、彼らに百年間の宇宙進出の地球の歴史を映像で見せられる(地球時間でわずかのあいだにじつは60年が過ぎている、という相対性理論的な描写もあり)。遠くから見られた地球の時空への距離感を感じさせたいのだと思う。最後に、宇宙空間の真っ只中に置き去りにされた宇宙人の動揺が描かれ、この場面のやるせなさ、切なさにはちょっと感動する。そして、じつはそこがプラネタリウムであったこと、少年がすでに外に出ていることが明らかになり、宇宙人は空中から急いで彼をさがす。が、探し当てられないまま、場面は暗い夜の中を、正面奥に向かって走り去る電車の場面で終わるのである。その、ぽつんと点灯する電車の後ろ窓の光の切なさもまた胸にくる。
〈動きだした電車は、やみの中にすいこまれるように〉去ってゆく。

作品としてのまとまりはともかく、あきらかに大城のぼるは、自分自身を遠くから眺めることを一種の哲学のようにして作品化しようとしたんじゃなかろうか。戦後の、細密な描写と動的で過激な動きの分節と、戦前からの静かでファンタジックな線や場面との混合が、大城のぼるの戦後だったように、これらを読むと思える。そこにどんな意味があったのか。この作家は、これからも復刻と研究がなされるべきだと思う。面白いなああ!

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