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夏目房之介の「で?」

手塚眞×メジエール×クリスタン(原正人・司会)

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5月10日、ヨコハマ創造都市センターにて行われたイベントのメモを少し。

1967年に連載開始した彼らの代表作『ヴァレリアンとロールリーヌ』に登場するヒロイン、ローリエーヌについて、メジエール氏は「それまでBDに女性キャラクターが登場することはほとんどなかった」という意味のことをいわれた。クリスタンも「とても成功した登場人物で、もともとフランスにはない名前だが、それがきっかけで娘にその名をつける人もいた」と発言。日本でも知られる『バーバレラ』(62年開始、68年映画化)のほうが先なのだが、その質問に対して「あれは、エロティックな作品だから」という答えだった。どうやら、ふつうの女性が自由な人格として(エロの対象としてではなく?)表現されたのは初めてだった、というような意味らしい。
そこで、僕はこんな質問をしてみた。
「日本では、70年前後から女性解放運動があり、女性向けのマンガも活発になり、女性読者も増えた。ローーリエーヌの登場には、女性解放の動きが影響したのだろうか。また、その結果女性読者が増えたということはあったのだろうか?」
メジエール氏の答えは、こんな風だった。

「当時、クリスタンと二人で米国に旅行した。フェミニズムが勃興している時期で、その印象があったのは事実だ。われわれも若い男の子であったので、女の子が自由溌剌なことは、大変喜ばしいことだった[ここは、イタズラっぽく笑っていったので、多分いいことがあったのかもしれない(夏目)]。ゆるやかだが女性読者も増えていったと思う」

クリスタン氏は、話の中で「言葉(文字)によって人物の内面を表現するとは考えにくい」というようなことを語った。これは、似た印象をグルンステンからも感じたのだが、フランスでは「人格や感情(心理描写)は絵が描写し、言葉はストーリーを作るもの」という考え方があるようだ。難しい質問になるとは思ったが、こんな風に聞いてみた。
「厄介な質問かもしれないが、日本では、マンガの中の言葉が内面を表現するのはむしろ自然と受け取られている。クリスタン氏の表現はわかりにくいと思うので、なぜ言葉が内面を表現できないのか、具体的に教えてもらえないだろうか?」
クリスタン氏はこんな風に答えた。

「広い視野からいえば『ヴァレリアン』はもっとも古典的な作品である。70年代以降、モノローグの導入で内面を表現する試みは行われた。女性のアーティストと私のコラボでは、男女の恋愛を描くために内面的発話を実験する必要があった。今のBDでは女性性が前面化しつつあり、内面性もまたそうだ。これは文学への接近といえるだろう」

この話題については、懇親会の席で彼らの通訳をされた方にも話を聞いたが、どうもフランスには伝統的に「心理描写は絵、ストーリーは言葉」という概念が強いようだ。19世紀の観相学とカリカチュアの関係以来の伝統なのだろうか。クリスタンの発言が、実際のBD上でも具体的に指摘できることなのか、言説のパターンなのかまではわからない。

ところで、日本では紹介されていない『ヴァレリアン』だが、僕は30年以上前に一部を見ている。当時、しとうきねお氏が持っていたBDを集めた厚い本を借りていたことがあって、そこには『ヴァレリアン』の一部が紹介されていたのだ。絵柄の記憶でわかった。
青基調の寒色で描かれた氷の世界を歩く主人公二人が、突如空から降ってくる色とりどりの花びら(ピンクなど暖色系)に喜ぶ場面だった。色彩による見事な演出で、なるほど、日本では白黒が基本だから、こういう鮮やかな表現は発達しなかったんだな、と感心したのをよくおぼえている。
今回、その話を原正人氏にしたら、彼はまさにその場面を探してくれた。懇親会の場で、メジエール氏にその話をすると、とても喜んでくれた。マンガにかかわることは、よくおぼえているのだなあ、と自分でも感心する。

全体に、メジエール氏、クリスタン氏は、彼らの仕事が映画やSF的ビジュアルに影響を与えたことを中心に語り、逆に米国映画やSFビジュアルの影響を受けたかどうかの質問には、否定的にふるまっていた(フランス人だからねー)。メジエール氏は、それでも『2001年宇宙の旅』の宇宙ステーションへのオマージュとして描いた場面を見せてくれたが。
懇親会で、小野耕世氏は「もちろん、いろいろ影響されてるところは指摘できるよ。あれもこれも。でも、そういうこと自体を楽しむのが、いいんじゃない。どっちが先でえらいとかいってもしょうがないよ」と笑いながらいわれていた(もちろんフランス人には聞こえないところで)。さすがは小野さんです。

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