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夏目房之介の「で?」

ブイスー氏発表に関する若干の補足

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 ブイスー氏の発表内容について若干の補足、感想、意見を加えておきたい。

 ブイスー氏の発表内容記事は、通訳者・大津さんを通じてチェックを受け、許可をえてブログに発表した。ただ、これは氏の口頭での発表を日本語訳したものなので、正確性や厳密性において割り引いて読まれなければならないだろう。

 また、僕はブイスー氏の他の仕事について知っているわけではない。英文の論文も読んでいない。ここでの感想、意見は、あくまで今回の発表を聞いたかぎりでの、限られた情報を元にしている。

 ブイスー氏の発表を聞いて僕は、フレデリックL・ショット『ニッポンマンガ論 日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』(マール社 98年 ※英文の原書は「Dreamland Japan96年)の次の個所を思い出した。

 〈だから、毎年無数のマンガ作品が生み出されているが、大部分は、夢を語るにも似た性質の作品が多い。読者の希望や恐れに訴えかけるのだ。毎日ストレスにおしつぶされ、神経症気味になったりいらいらしたりしている都会人の気分に、マンガはぴったりとマッチする。こう考えてみると、信じられないほど大量につくりだされるこれらのストーリーマンガというのは、とどのつまり、たえまないおしゃべりの無意識な集成なのではないだろうか。夢の世界の明確な表現と言ってもいい。〉(同書 29p

 この訳文の「無意識の集成」は、原文「collective unconscious」に当たると思われる。これをユングの「集合無意識」として直訳的に直すと、大体こんな意味にとれる。

 〈全体的にみて、日々生成する[マンガの]物語は、[日本人の深層心理的]夢の世界を[伝達可能な]明瞭な言葉にする、集合無意識のとどまることないおしゃべりである〉夏目房之介『マンガ 世界 戦略 カモネギ化するかマンガ産業』小学館 2001年 186p

 マンガを知りたい海外読者に向けた解説的ガイドブックであるこの本では、海外読者が日本マンガの意味をどう理解したらわかりやすいかという観点の一つを提示している。それが日本人の集合無意識を「作者」とし、また読者ともする、夢の表現としてのマンガという観点だろう。ブイスー氏の観点も、また同様の距離感でマンガを捉えようとしているようだ。

 もちろん日本人自身が似た観点を持つことも可能だ。たとえば斎藤環『戦闘美少女の精神分析』なども、そう捉えることができる。斎藤は「戦闘美少女」というキャラクター類型を、日本固有の領域として分析しようとする。ただ、そこでは「おたく共同体」という受容者集団とその文化が想定され、日本人全体の歴史/物語に直接接合はされない、ワンクッション置いた手続きがとられている。おそらく日本人自身には、マンガやアニメを巡る詳細で具体的な側面が見えてしまうので、表出と受容についてより慎重な手つき、近づいた目が必要とされるのだ。

 海外から日本マンガやアニメを理解しようとするとき、そのあたりが大雑把になり、かえって遠い目で俯瞰的な観点を提示することが可能になるともいえる。

 精神分析は、本来目に見えない人間の心理の、それも隠された構造を問題にするので、人間の心が人間の心を相手にするという、検証性という点でいえば相当危うい手段をとらざるをえない。まして個人を対象とした精神分析の枠組みを、そのまま社会という大集団、とくに民族単位の時間に敷衍してしまうことで生じる恣意性は、こうした論では逃れ難いだろう。心理学系のマンガ論が往々にして恣意的な社会反映論に陥るのも、それゆえだと思われる。

 じっさい『銃夢』が日本近代史の特徴を反映しているというブイスー氏の仮説は、氏の作品の「読み」の恣意性を逃れるような検証性を、この発表では持てていない。ただ、それゆえに「面白い」のも事実である。ここまで大枠でずばりとマンガ作品と歴史/社会を貫いて仮説化してしまうような大雑把さは、現在の日本のマンガ論では難しい。それだけに、かえってそこに意外な視角や新鮮な驚きを感じもする。日本のマンガ論の歴史的枠組みを持たない場所から、どんなマンガ像がありうるのだろうという興味も湧く。

これは、海外との交流の中で、互いの知的な枠組みを形成する、おのおのが属する言説空間の差異を、どう考えるかという課題につながると思う。我々は、いつもその属する社会の、特定の言語圏での言説空間に内属し、そこで生まれた歴史観に浸食されて世界を見ている。このことを、仮想的にせよ「外」に出て見直してみる契機を、こうした経験は持っていると思う(このことは、昨年の京都でのマンガ、BD、コミックについての国際会議の発表をもとに書き起こした今夏発表予定の小論の中でも言及している)。

以下、ブイスー氏の発表内容に触発されて想起したことを、ひとつだけ書いておく。

質疑の中で、ブイスー氏は日本マンガの「メカ」という分野について『鉄人28号』をあげた。白人支配との戦いに負けた父を持つ少年の、敗戦による去勢を乗り越える戦いが、強い敵の持つ圧倒的な「機械」の移転によって勝利につながる、というのが「メカ」マンガの「物語」の「意味」である、とされた。

僕は、雑誌連載版『鉄人28号』の中で、初期の鉄人(のちに27号とされる)が自衛隊の戦車をひねりつぶす場面を思い出した。戦車の中からは〈むりもないや 外国のはらいさげ品だからな〉(横山光輝『鉄人28号』1 光文社文庫 96年 116p)という声が聞こえる。この部分はおそらく連載開始の56年掲載のもので、51年の講和条約から5年後だが、米占領下の屈折した思いがユーモラスに表現されている。占領下に生まれた当時の少年読者にも、同じ気分は共有されていただろう(少なくとも僕はそうだった)。

当時の月刊マンガ誌の主人公には、少年なら父不在、少女なら母不在といった、敗戦後の子供たちの周囲にあった「負けた国の現実」が影を落とすように見える設定が多い(『赤胴鈴之助』もまた!)。巨大ロボット物の祖といわれる『鉄人』にも、その影はあり、やがてそこから歴史的な「意味」が失われていったという観点は、「戦争」との関係をあまり意識しないできた日本のマンガ論の陥穽を突くところがある。

また、敗戦と米国支配を父母との関係に映しだそうとする6070年代「ガロ」発表の林静一の一連の作品を想起すれば、マンガの中でも、それは意識化されようとしていたことがわかる。

ブイスー氏発表内容を、現在の日本マンガ論言説の枠組みから批判し、切って捨てることは、むしろ容易かもしれない。が、それではせっかくの機会を逃してしまうだろうと、僕は思う。

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