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夏目房之介の「で?」

八卦掌単勾式八番まで

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八卦掌の練習、本日は「単勾式をうまくできないのは、手の動きがおぼえられないからではなく下盤(体幹の落としと、しっかりとした扣歩擺歩)ができていないからだ」とのことで龍形と熊形を前半みっちり。これ、体験教室でやってもよかったのでは、と思ったけど、それはそれとして、納得の基礎訓練でした。実際、僕自身もそこが最大の問題だったし。その上で、後半は単勾式の八番目。燕が鷹になる動き。
今回感じたのは、相変わらず新しい動きを覚えるのは苦手なものの、以前より下盤ができたせいで、動きの合理性は身体的に感じられ、その分、李先生の見本をなぞるのは容易だったこと。その場でも、できるだけ体幹で動くように試みることができた。
「新しい複雑な掌法などばかりやって基礎の走圏をやらないなんてのはダメです。でも、基礎の走圏ばかりやって、掌法を覚えないのもダメなのです」という言葉も、納得。新しい動きをやると、いかに自分が不安定で基礎ができていないか、どこが弱いかがわかるし、微々たりといえどできた部分は新しい動きにも対応できるこどがわかるからだ。

ところで、李先生がボードに書かれた言葉「軽→重、快→慢(速いと、ゆっくり)、上→下(もひとつあったが忘れた)」では、こんな説明が。
「軽さは重さがあって成り、上は下によって成るという陰陽の関係にあるので、この「哲学的」な側面を考えてください。」
このとき、気づいたのだけど、僕や八戒さんなんかは、たぶんこれを以前なら抽象概念としてだけ聞いてしまったと思うが、今は自然にそれらを自分の身体的な内感覚に対応させて理解しているということだ。李先生の言葉は、じつはけっこうベタに身体や運動に対応しているのだ。ただ、その身体感覚が自覚できるまでは、抽象的にしか聞こえない。
とはいえ、これらの言葉が抽象的な世界を持っていないわけではなくて、おそらくベタに身体的でありながら、そのまま抽象的でありうるものなのだろう。伝統的な言語と身体との関係とは、そういうものなのだろうか。

明日は大学の仕事で早いので、お先に失礼して、茗荷谷の駅前の「王将」で東京らーめんセットを食べた。ひとりで王将に入ったのなんて、たぶん4~5度目じゃないかな。東京風のシンプルなラーメンと小チャーハンに餃子。けっこう旨くて、一気に平らげてしまい、お腹いっぱい。茗荷谷の王将が旨いのか、八卦掌の練習後だからなのかは微妙。

追伸
八戒さんのブログに記事。
で、思い出した。忘れてた対は「変化→不変化」。

八戒さんの「気」の語り方は、かなりいいんじゃないかと思います。
もっとも先生に聞くと「違う」といわれるような気がしますが、それはそれ。

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