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夏目房之介の「で?」

八卦掌練習と言葉の不思議

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ここんとこ試験期間で講習会も出られませんが、何とか毎日の練習は短めだけどやっております。それで感じるのが「俺、ようやく今八卦掌の基礎練習になってきてるかも」っていう「思い」なんですなー、今さら。
とくに今回は足がしんどい。李先生によると、走圏ができてきたので、その分負荷がかかるけど、まだそれに耐える力がないからだ、と。今回の特徴は、とりわけ太股の裏側が筋肉痛。どうやら、股間を締めながら重心移動したり回ったりするせいではないかと。
そうか、こういう訓練をしてるんだな、これが「力」につながる八卦掌鍛錬の意味なんだ、みたいな・・・・・。

でも、同じことを過去何度となく感じてきた。去年の半年間集中部活状態でもそうだったし、それ以前にも繰り返し「ようやく練習になってるのかな」って感じてた。
この感覚と「思い」って、要するに自分が教わってきた言葉が、身体感的な「内実」として以前よりリアルに感じられることから来てるわけです。ただ、その「内実」を言語化しようとすると、前からさんざんいわれてきて、自分でも言葉にしていることの繰り返しになってしまう。それって言葉や言葉同士の関係を抽象化する方向ではなくて、むしろ言葉に対応する身体感覚と動きの実体的な関係性に還元されるようなものなんですね、どっちかつーと。
なので、どんどん「書く」ことがなくなってくる。

鍛錬度の異なる者同士でも「あそこがこうで、だからああなんだよね」「そうそう」という同感の会話が成り立つのも同じ理由によるんだと思いますが、それは「いや、ソレじつは違うんだよね」っていうべきもんじゃないと思うんですな。たぶん、大枠でいえば「同じことだよ」って考えていいと思う。李先生ほど違ってしまえばともかく、鍛錬レベルが多少違っても、意味しようとしているベクトルは同じだと考えたほうが、言葉として開くんだと思う。逆に「言葉は同じでも、内実が違うんだよ、それじゃダメなの」っていう方向に持ってくと、極端にいえば「秘伝的神秘」「言葉にできない領域の神聖化」に向かっていっちゃう気がするんであります。
「違うかもしれない」を前提として共有した上で「同じ(方向)だよね」って肯定したほうが、コミュニケーション言語としては生産的だと思うのでした。
そのほうが楽しいしね。

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