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夏目房之介の「で?」

西島大介『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』太田出版

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これは、非常に面白い本です。いろんな意味で(笑)。

2007年5月、描き下ろしの『世界の終わりの魔法使いⅢ~影の子どもたち』全184pを入校した西島氏は、その後、手直しのため一部原稿の返却を請求し、出版社は送付をアルバイトに依頼。その後、送付するはずだった67pが紛失した。この本の西島氏によるマンガは、その経緯をマンガ化したものである。つまり、一次的には紛失をめぐる出版社とのやりとり、ことの進み方を業界モノのように楽しむことができる「面白さ」がある本なのだ。

けれど、西島氏の対応は、じつはふつうの作家さんとかなり異なる。もちろんショックを受け、悲しいと書いているのだが、同時に、マンガの生原稿がなくなる、という事態そのものにある種「マンガの価値」(描くことや出版サイドへと流通することの間で生じる価値の差異など)を考えるという意味での興味をもってしまう。感情的なことより、その推移を冷静に経験しようとする興味がまさってゆき(実際には相当しんどかったに違いないと思うが)、しかしそれが出版社側には相当の戸惑をもたらしたろうことが推測され、そこがまた「面白さ」になっている。西島のキャラによる、やや低血圧なテンションのクールさ、フリーハンドによるコマ割の端正な柔らかさが、この話への距離感を絶妙に表出している。

もうひとつは、西島が依頼したという大谷能生氏(よしお 評論家・音楽家)によるエッセイである。マンガと交互に、かなりのボリュームで入っている。当初マンガ業界には疎い、ということを武器に、出版社への取材を企画したようだが(当たり前の話)断られる。その結果、彼は「複製」を必須とするマンガにおける原稿の意味を考えながら稿を重ねることになる。これがまた、非常に興味深くて「面白い」のである。
原稿が出版物になる手前で編集者によって加工されるリードや写植などへ物質的側面への注目、西島マンガを通して考える「絵」と「言葉」の関係、映像や音楽の個人所有モニター化とマンガのキャラ=イメージの所有の関係などが語られ、マンガを他のメディアとの関係、あるいはその総体の文脈の中で見ることをメディア・ミックスとキャラ、オリジナルとコピーの話にからめて書いてゆく。マンガをマンガだけで論じる限界が顕になってきている現在、こういう論考は刺激的だ。

もちろん、西島氏がいきなり「原稿紛失の補償額は原稿料の10倍」という、聞いただけであやしい伝説で折衝してみたり、でも描き下ろしだから原稿料は0円になり、10倍でも0円なのだと考えたりするように、ふつうに商行為をしていたら考えるだろうような「常識」がなく、マンガ家が相変わらず「世間知らず」であることを感じるのも事実だ。それもあって、多少業界を知り、また産業構造として出版やマンガを考えている僕などには、食い足りない部分は多い。というより、具体的な構造の問題よりも、むしろ抽象的なところに問題点がいってしまう。そういう部分を期待してもしかたない本ではある。
同じような気分は、この本をブログで取り上げ、イベントにも参加した竹熊氏も感じたようだが、まあ、それをいってもしょうがない本だろう。でも面白い本であることには違いがない。

竹熊氏の関連ブログは以下。
「マンガ原稿紛失とその賠償額について」
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-abf4.html
「「表現」の値段」
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/manngato.html

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