オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

国際シンポ12月18日ワークショップへのコメント

»

簡単に紹介しようと思ったのだが、案の定長くなってしまい、途中で力尽きてしまった。中途半端ではあるが、18日の発表の途中までを紹介する。

第1日目 2009年12月18日(金)
ワークショップ

野田謙介 マンガ研究家。
「日・仏・米マンガ理論の比較可能性について」 
 『マンガの読み方』(夏目・竹熊他、日本、1995年)、『マンガのシステム』(グルンステン、フランス、1999年)、『マンガ学』(マクラウド、アメリカ、1993年)など、ほぼ同時期にマンガ論の集大成的仕事が各国で出現したこと。そのさい、日本では「マンガ」の自律性が強調され、作品の選別と排除が行われた。仏、米では、欧米の作品や日本マンガにも言及があったこと。とはいえ論の「試金石」となる作家(作品)がそれぞれの国で異なる。日本では手塚、仏ではエルジェ、米ではカービーやアイズナーなど。一方で、これらの理論はより一般にも開かれようとしていた。そこに既視感と違和感が同時にある。成果があがるとは、同時に限界が見えることでもある。相互参照と比較、具体的な作品に降りてゆくこと、また社会など自律性の外にあるものとの中で、可能性を探ってゆくことになろう。・・・・・というような発表だったと思う。このシンポを始めるにあたり、グルンステン『マンガのシステム』訳者として、見取り図を提起したもので、バランスのいい発言だった。

野田発表に対し、ベルントさんがマンガ、コミックス、BDのの共通性を強調するために、じつはお互いのマンガなどを読めない、読む機会がない事実を抑圧する可能性があることを指摘された。議論可能性を失い、空疎な協調に陥ることを、このシンポを構成した立場から心配してのことだと思う。この点は、まさにこのシンポが行われる意義に直結する問題で、結果からいえば、各国から同問題に関して活発に議論され、深まったとはいいがたい。が、少なくとも同問題をめぐる課題はいろいろと示唆されたのではないか。


ネラ・ノッパ ベルギー・ルーヴェン・カトリック大学日本学科博士課程
「グローバルな『マンガ研究』は一体何を対象とするのか?ファン・アート研究の視点から」 
同人誌の「二次創作」など、ファン作品に対する著作権法による位置づけは、マンガ/コミックスの全体を語るとき、不当にそれらを周辺視するのではないか、という問題提起だったと思う。発表要旨によると〈「マンガ/コミックス」の特徴をその視覚的表現形式に見出してよいかもしれないが、しかし、それを基準に「マンガ/コミックス」である作品とそうでない作品を区別してよいのだろうか。[略]社会的に特権化されていない作者・読者層やそれが好むコミュニーケーションの仕方を無視してしまう危険性をも抱えている〉とある。マンガ/コミックスが社会的な場に存在している以上、読者層=クリエイターである「二次創作」領域を繰り込んで考える必要は当然あるし、また必要だろう。ただ、発表の限りでは、まるで「二次創作」作品が著作権を保証されていないかのような発言もあり、海外研究者の日本語での発表の限界や、日本の著作権状況と欧、米のそれとの異同などを勘案しないと、議論が単純な大手商業主義批判に陥りやすく、小田切氏から「二次創作」と「二次的著作物」(著作権法上の言葉)の混同も指摘されていた。


パトリック・W・ガルバレス 東京大学大学院情報学環・学際情報学府博士課程 オタク文化研究で長年秋葉原を調査し、日本のTVにも出演
「『おたく』の社会的生態とマンガ研究の必然な関係について」 
つい数日前にTVで『ドラゴンボール』のコスプレをした白人男性が秋葉原を紹介しているのを見た。「萌え」絵への発言など、ずいぶん批評性の高い人だなあと思っていたら、この人だった。講義で使おうかと録画したほどだ。あれは文化人類学のフィールドワークだったのだ、と納得した。
彼は戦後のマンガ史、言説史を概観した上で、おたく的なマンガ、アニメの消費と創造に着目し、国際的なコミックス研究においても、その歴史的コンテクストを形成するメディアの発展過程を探求すべきだと主張した。この点に関しては、まったくその通りだと思う。60年代以降のマンガ「読者作者共同体」の変貌と発展、アニメやゲーム、商品をめぐる受容・消費層としてのおたく的共同体の存在は、今後海外のファン層などとの比較研究によってさらに研究がすすめられるかもしれない。「創造・消費のパターン」の社会的なありようという視点は重要だと思う。僕自身、おたく的消費・創造は、社会的な中間層の厚みを持つ高度な大衆消費社会に突入した日本が産んだ「消費と表現の一致」現象ではないかと思っている。
彼は多くの図版を提示し、海外の「萌え」絵と日本のそれを区別できるかどうか尋ねたり(僕にはまったく判別できなかった)、なかなか面白かった。また、そこで描かれる過激な性や暴力は、あくまで「虚構のコンテクスト」への欲望を投影したもので、現実とは無関係であると強調していた。この点は、彼自身が「おたく」であることの主観的な表現でもあるように思えたが、はたしてそこで問題が終わるかといえば難しいように僕には思える。日本のおたく共同体内で、もしそのような了解が共有されているとすれば、それはなぜなのか。そう問い始めると、そこには「現実」の社会との関係、境界的な諸問題が浮き出てくるのではないか。
彼が〈日本では、戦後からマンガは安くて手に入れやすい子ども向けの媒体で、検閲の対象にならなかった〉(要旨より)と発言したことには、会場から当然のことながらGHQによる検閲の話題が出された。ただ、赤本などの周辺的な媒体では、GHQの検閲が厳しかった一時期や教育関係からのバッシングをのぞき、いわば社会的に注目されない媒体でもあった。彼が指摘したかったのは、それゆえの「ユルさ」の点ではなかったか。じっさい、おたく的創造物の性・暴力表現の野放図さを考えれば、一体どうしてそれがこの国で可能だったのかという問いは必然的に出てくるだろうから。
彼とは、打ち上げのときにほんの少し話をした。秋葉原は、ここ数年で彼のような「異人」を受け入れなくなってきた(数年前まではウエルカムだったという)、自分がアキバ・ツアーなどをやることで、どんどん誤解が生じることへの反発もあるので、ツアーはやめようかと思っていると語っていた。僕には、それは文化人類学のフィールドワークが持つ、調査による現地文化への影響と変容という矛盾でもあるように思えた。


雑賀忠宏 神戸大学大学院人文学研究科学術推進研究員
「「マンガを描くということ」をマンガ家たちはいかに描いたのか:マンガ生産行為の真正性をめぐる言説としての「業界ものマンガ」」 
要旨には〈文化生産をめぐる社会的関係において、正当な象徴的・経済的報酬を得るにふさわしい生産行為であると承認されるための条件、すなわち文化生産行為の真正性の定義は、関係者にとって極めて重要な象徴闘争の争点となってきた。[略]「業界ものマンガ」をはじめとする、「マンガを描くこと」に関する自己言及的なマンガ作品を議論の対象とすることの可能性を検討する。〉とあり、専門用語(学術的訳語)が多くて、僕には何のことかわからなかった。が、実際の発表は『BAKUMAN』『青春少年マガジン』『吠えよペン!』、ガロ、COM、つげ義春など、日本のマンガにおけるマンガ家像の変遷を具体的に追い、さらにスピーゲルマンなど海外の例も引いて、「あくまでフィクション」などといいながら、そこに生じるマンガ家像が実像と一致することを期待され、社会で機能することを指摘した非常に興味深いものだった。そこでは作品内外の作者の連続性が認知され、一種の模範として機能し、演技も必要とされる。
雑賀氏は大塚英志を引いていたが、できれば梶原一騎という「実話作家」の登場にも触れてほしかった。また、これらの現象が、ハイアートの「作者」像と異なり、消費社会の多層性・擬似性を背景にした大衆文化としての現象であることにも配慮が必要なのではないかと思った。とはいえ、各発表の時間は短く、おまけに通訳しながらなので、無理は承知のないものねだりである。議論の時間も、あまりに少ない。しょうがないのだろうが・・・・・。


猪俣紀子 BD研究家、翻訳者
「フランスの少女向け媒体におけるBD」 
仏19世紀後半の児童向け出版物に掲載されたBD、とくに少女向けの媒体が、やがて仏版「少女マンガ(BD)」となり、やがて衰退してゆく過程を、少女向けの新聞La semaine de Suzette、Fillette、Suzetteを年代ごとに紹介して分析。仏の少女マンガは未見で、日本、米国同様に、少女向けマンガが存在し、消滅していったことを初めて知った。これも、非常に刺激的で興味深い発表だった。60年代には学園物などもあったようだが、60年代末にはアイドル人気に座を奪われ、消滅していったという。ちょうどBDの青年化が進行した時期で、日本との真逆といっていい違いが面白い。猪俣さんは、日本と違って仏では「カップル文化」になったせいもあるかもしれない、といっていた。仏でも、女性向けBDの研究はないらしいが、今後比較研究が進むことを望みたい。
夜の食事会で現物を見せてもらったが、基本的には新聞が発展したような、閉じていない冊子で、ページ数の限界からも物語化する余地が少なかったのかなと感じた。やはり日本の場合、男女別学という日本近代の制度を背景に成立した厚みのある平閉じ少女雑誌の存在が戦後の少女マンガに継続され、戦後の読者と年齢の近い女性作家群の活躍が大きな要素だったのかもしれない。この問題は、あとでも議論されたが、まだ確定的なことのいえる研究段階にはないのが残念だ。何よりも資料を整備し、地味で綿密な歴史研究が必要とされる分野だろう。多くの人が質疑でさまざまな観点や指摘をされたのも、この話題の求心力を語っているように思う。僕も、終了後、日本の急角度な高度成長と「おこづかい」という可処分所得の問題を指摘した。

Comment(1)