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夏目房之介の「で?」

2009.12.18 グルンステン氏の発表後の質疑

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京都の国際シンポでのグルンステン氏の発表については、質疑で印象に残った箇所にコメントしておく。

グルンステンさんの発表後、いくつかの質疑があった。その最後の方でグローバル化とナショナルについての質問があった。

欧州(フランス?)においても日本においても米国の娯楽文化、たとえば『スーパーマン』が輸入され浸透した。グローバリゼーションによるナショナルなものの変化については、どう思うか。たとえば世界で日本スタイルのマンガを描く若い人がいるが、それは今後どうなるか。ナショナルとは何だろう?

といったような(曖昧な記憶だが)質問だったように思う。グルンステンは、フランスでマンガスタイルを描く人に対し、あまり寛容な気分をもっていないようだった。学校で教えてきた経験では、すでにマンガ・スタイルのブームは去った、といっていたが、むしろ一定程度定着してしまったのではないかという気がしないでもない。そのあと、ベルントさんがマンガスタイルで描いているドイツの女性に発言させたが、むろん彼女は「マンガ・アニメは自分の文化である」といっていた。

この質問の前に、日本マンガがフランスなどで、いわば親世代への若者の反抗文化として機能し、日本マンガのエキゾティズムがそこに加担したのでは・・・・というようなグルンステンの応答があって、その流れだったと思う。

この問題について、僕は以前から日本マンガスタイルの浸透を面白いと思っていて、それこそが大衆文化の意味ではないかと思っていた。それは即座に「若者文化」としてのロックンロールの世界伝播、ビートルズの誕生、世界各地での影響と模倣からやがて日本ではYMOが生まれ、坂本龍一が世界に出て行った現象を想起させた。それらは、いつもエキゾティックな異文化性(ロックには黒人性など、マイノリティの要素が隠し味的に必要である)を伴ない、しかし同時に無国籍的で、時間をかけて地域化され、再び別の異文化性を帯びて境界へと出て行く。マンガもまさに、欧米からの影響で誕生、変容し、ローカライズされ、そして異文化/無国籍な文化として輸出されているのだ。

グルンステンは、そうした現象にあまり興味がないのかもしれない。でも、僕は夜の食事会で、その質問をした発表者の男性(今、名を思い出せないが)を見つけて「あなたの質問はとても興味深いし、重要だと思う」といって話しかけた。日本マンガを描くドイツ女性、グルンステンも同席していて、グルンステン以外は話が盛り上がった。ちょっと文化観の温度差を感じた場面であった。

そういえば、ベッカー氏の取材後、日本人は欧米に対しては自らをエキゾティックに見せようとし、アジアに対しては近代化した自分を見せようと無意識にする部分があり、その点を注意しないといけないと思う、という話をした。ベッカー氏は、それに対して「そのことを感じていない外国人はいないんじゃないか」というようなことをいっていた。なるほど、やっぱり他人から見る姿ってそうなんだな、と思った。

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