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夏目房之介の「で?」

伝統的な教え方の近代的な説明

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八戒さんのブログで、李先生が語ったことが書かれていて、これが非常に興味深い。
http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/
いわば「伝統的な(いいかえると前近代的な)対面的教授法を近代的な言葉で説明する」ということをやっている。詳しくは読んでいただきたいが、あげられた注意点は:

  1. 先生に問いかけるな
  2. 先生を盗み見るな

だそうで、う~む、そんなこといわれてもなあ・・・・なわけですが、そのワケが解説されている。
それを読むと、ナルホド、そういえば僕も最近ほとんど先生に聞かなくなったなあ、と思った次第。(※この場合の「盗み見る」は、教えられて見せられるものではなく、先生自身の練習をこっそり見て盗もうとすることだと思われる。八戒さんは通訳なので、常住一緒にいる機会が多く、おまけに研究者としてそうせざるをえないので、「盗み見る」んだろう)

八戒さんも指摘する通り、初心者は「問いかけ」るべきだし、先生が見せてくれる動きはきちんと見ないとけない。が、先生と同じ場所でいつも練習できるという条件の中では(いいかえると身体的に場を共有した「教える/教えられる」関係の中では)、自分の中に沸き起こる言葉を抑制したほうが効率がいい。もちろん、必然的に人はそこを外れてしまうので、近代人はとくに抑制が必要になるが、その抑制には必然性がある。「言葉」の理解というものの限界についての知見、という側面もある。

で、この点で、李先生がわかりやすく説明をできたということに、僕は感動したんである。
伝統的な教授法なら、そんなことは必要ない。頭ごなしに一喝すればすむ。そうではなく、言葉でそれを説明するというのは、じつは近代知識人の必然なのだ。この説明をうまく理解できないと、おそらくこうした教授法は誤解されざるをえないだろう。不誠実や虚偽にとられる可能性もあるといえる。ひょっとしたら、同じ悩みって多くの他の場所でもあるのかもしれないな。
こういうとこに八戒さんがこだわる「言語化」の可能性もあるのかもしれない。

もうひとつ、ナルホド~と思った言葉。八戒さんが、習ったあれこれに共通する要素を考えて、その理解を先生に確かめたとき、理解自体は正しいのだが、それに固執して練習方法がズレていってしまう可能性があるので、そういうことをすべきではないと語った部分も、含蓄がある。

「理解は正しいけど、練習の姿勢としては間違っている」

ふ~む、そういうこともあるんだよねー。

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