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夏目房之介の「で?」

現代マンガ学講義8  コマとは何か

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今年はそういえば講義内容をアップしていないので、先日やった講義のレジュメを少し直して載せます。その前の講義で、マンガのコマの「読み」の印象を(雑誌というメディア体験も含め)うまくアニメ化した井端義秀『夏と空と僕らの未来』(個人製作アニメ 2005年 11分)を学生に見せ、リアクション・ペーパーで有志のみの感想を採取(けっこう多かった)。それをもとに講義を組立てました。後半は、マンガ言説において「コマ」がいかに「発見」されたかの話にするための資料になってます。

2009.6.4 学部講義(24年)木曜4限 現代マンガ学講義8 夏目房之介

コマとは何か 井端義秀『夏と空と僕らの未来』個人製作アニメ 2005年 11分

◎リアクションペーパー

・「動き」「話」はいいが「絵柄」「人物」が今いち

・マンガをどうやって読んでいるか気づかされた

・ずいぶん複雑なことを同時に行っているんだな

・マンガを読んで「音」を想像しているのに気づいた

●マンガとアニメの特性

・動いてしまうと、絵の奇妙さは気にならなくなる(K

・アニメになると絵の狂いがより顕著になる気がする(3年 K2

・マンガはもう一度読みたいところに戻れるが、アニメは戻れない[不可逆性](3年 M

 →時間の質 ビデオ、DVDの可逆性 機械を通した切断とリバース操作と目の一瞥か手のめくり(ページ、コマ単位の「再生」 意識内での「止め」(なかった時間) 時間の質の違い

 マンガ 時間=空間としての変換受容の快感  アニメ(映像) 時間そのものの受容快感

 文字、言葉の時間変換と物理時間・心理時間

・カットのつなぎではなく、パンの速度で時間が表現されていた(画面が一つしかない媒体)

コマの動きに効果音がついていたのが面白い(2年 T

 →カットとパンの時間の違い 切断の間(切断性の緩和と強調)と運動そのものの時間

 音=時間そのもの 効果音、音楽=物理時間の心的現象化

・コマの中に自分も入っている気がして、マンガを普通に読むより引き込まれた(3年 S

・実際には特定のコマのみを順番に追えないので、マンガや一般のアニメより「操作されている感」が強まる(4年 K3

 →フレームとコマ 全体(紙面)を周辺視で見つつ進めるマンガ(紙面とコマの二重性=多義性)と映像フレームの一義性 →映像のフォーカス→コマへの集中=没入感と被操作感?

・マンガは左上も視界に入りストーリーを先取りしてしまうことがあり、作者の意図を越えて読み手に左右されるのがマンガの特徴では(3年 I

 読み手の自由度の強調=60年代のマンガ批評の評価の仕方(石子順造、真崎守など[註1]

・女の子がコマから飛び出す場面は、普段マンガで読むことがない。純粋に「マンガを読む」行為の再現アニメとは思えない(3年 T2

 →歴史性 手塚の例など 「マンガの読み方」 メディアの生成

・場面をコマごとに区切り、その間を無意識に考えている。実際に動くのが見たくて、アニメ化を期待するのでは? アニメは音楽がある分、マンガより盛り上げやすい?(3年 A

 →マンガとアニメの近縁性 歴史性と媒体特性として テプフェール

・効果線の動き→本来の効果? 不覚にもグッときた 内容がすべてじゃないですね(3年 I2 

メディア・リテラシー ストーリーやテーマ以外の演出、音や効果など技術的な面で感動してしまう→メディア特性とメディア・リテラシーの問題 面白さ(快感)と批判性

「読み」(受容)のコード(約束事)の体系がある

●自分の受容感覚の対象化

・マンガを読むとき絵より文字を追う アニメだとギャグがわかりやすい(2年 U

・コマの中に流れているのと同じ時間とって読んでいるようでマンガを読むのが遅い ストーリーの理解に支障なければスルーすると聞いて驚いた マンガはセリフ以外の間白や時間の流れも読むべきだ(2年 I3

 読み方の個人差 「文字寄り」と「絵寄り」

・初めは「確かにこんな風に読んでいるな」と思ったが、よく考えたら自分の読み方とは早さが全然違う気がする。気にいった場面だと20~30分眺めている(3年 F

・子供の頃はマンガを頭の中でアニメ化していたが、最近は客観的に読んでいるので映像化されないことが多い(4年 K4

 →メディアと受容の違い 表現・伝達形式の差 まとっている文化文脈(子供向けなど

個人差(愛着、好悪など

コマの批評的「発見」と「読み」の自由

註1

1コマないし数コマの戯画、風刺漫画の時代にはとくに意識されず、物語りマンガの発達と批評の進展の交差で「マンガのコマ論」が生まれたと思われる

石子が中井正一「繋辞(コプラ)の理論」を引いているように、映画におけるカットの連続への観客の受容の自由度の批評的注目は早くからあった

峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」「COM」683月号

〈まんがが、芸術たりうるかどうかを考えることは、まんがのなかにオリジナルな要素があるかどうかを知ることにほかならない。あるとすれば、表現の分解によってひきだせるはずだ。[]手塚作品の登場は、映画・テレビの親戚を持ちながら、コマにある種の因果をふくませて独立を試みたBⅡ型まんが[引用者註=コマを持つマンガのうち「積極的意志によるコマ割り」のマンガ]である。コマを持つことによって、オリジナリティーの可能性を生んだまんがは、このとき、コマを操作することによって、はじめて、オリジナリティーを具体的に、表現する方法論を発見したといえる。/映画のカッティングが、まんがのコマにおきかえられたとき、まんがのコマは新しいモンタージュを持った。[]見開きページは、人間の視覚のなかに一度にとびこんでくるという印刷媒体の利点を活用し、コマ割りでドラマの経過に同時性を持った。時間を自由にあやつった。なによりも映画やテレビが、一方的にあたえるものであるのに対し、まんががコマ割りの中に、読者の想像力を参加させるという発見をしたことは大きい。[]B型[コマを持つマンガ]本質は、ストーリー・まんが・劇・画という話と絵にあるのではなく、コマそのものにあったのだ。[]近い将来、コマのモンタージュは、青年まんが誌的な、表現の自由がかなり許されている舞台の上で、中間小説的な内容を持ちながら、はなばなしく爆発していく・・・・と、私は予測している。〉(80~82p 下線、太字=引用者)

石子順造『現代マンガの思想』太平出版社 70年

映画理論の援用

文学では表象と表象をつなぐ「である」「でない」という繋辞がある。[]しかし、映画のカットによる連続にはこれがない〉(67~68p) →見る者(大衆)の想像力の参与可能性

〈中井がいう「映画」を、連続マンガとおきかえ、「カット」をコマに直せば、連続マンガの大衆性とコマの文法との重要性が、ほぼ適切にいい当てられるのではないだろうか〉(68p)

〈中井は[]繋辞は、映画を見ている大衆の内的な願望や感情の起伏だといっていた。一つのカットあるいはコマを見終えた民衆の心理は、運動としておのずから自分たちの知覚・認識に見合う動勢をのせている。その動勢を「である」という形で肯定的に制御するにせよ、「でない」として否定的にうち切るにせよ、いずれにしても受け手は自分で操作しなければならない。でなかれば、つぎのカットないしコマへの非連続的な連続にはついていけないだろう。〉(69p)

マンガの特異性

〈映画やテレビでは同時に二カットを見ることはないが、マンガでは、数コマあるいは見開いた両ページの全コマを視角に入れながら、しかも一コマずつを追っていく。[]受け手は、コマの大小に応じて一視野を意識的・無意識的に自己限定する運動にのらなければならない。/しかも各コマを受けとる時間もまた、受け手のものなのである。[]マンガでは、自分が見ていたいと思うコマは、それだけ見ていることができる。だからとばしてみることもできれば、前にもどることも勝手だし、数コマを比較して一コマとして見てもいい。〉(70p)

〈マンガの場合のコマの文法は、その繋辞の論理からいっても、劇の構造化が、映画よりいっそう受け手の側の知覚・認識との照応に基づくものであることを示していないだろうか。[]逆に、劇としてマンガは、作家の主張が適切に伝達されにくい(71p)

※映像、絵の連続の統御による文法とは、ある意味、物語のまとまりを文章同様に伝達するからこそ文法ではないか? 受け手の「自由度」だけを強調するイデオロギーに注意

※大衆媒体としての映画(映像表現)に使われた「受け手の想像力の参与」論が、映画と比較してもよりマンガに顕著だとしている点に注意(一種のマンガ・ナショナリズム?

「受け手の想像力の参与」論の後継者

加藤幹郎「愛の時間 -いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」米沢嘉博編『マンガ批評宣言』亜紀書房 87年

〈漫画が時間であるのは、それが静止画だからである。/[]あなたが眺める漫画のひとコマひとコマが、均質化することのできない時間、他のいかなる時間とも交換不能な時間を生みだす。/交換不能だというのは、それがあなた以外のだれにも通用しない時間だということである。[]そしてその持続においてあなたは他のだれでもないあなた自身となる。[]/漫画を読むとはそういうことなのである。[]それはあなたと漫画とのあいだで伸び縮みする時間であり、第三者の介入をまったく許さない時間である。〉(24p)

※実存意識の内部での現象を一般化し、媒体の伝達性、共有性を過剰に無視している

※マンガに限らない現象であることも看過されている

※が、これが70~80年代「新世代」の「私語り」マンガ論の基調だった

米沢嘉博「マンガの快楽 -風景・線・女体・グロテスク」同上

おそらく、マンガとは“私性”そのものなのだ。マンガを描くことが「私性」の表明であるのと同時に、マンガを読むこともまた「私性」の表明であるのだ。[]/マンガは「私」と「私」、つまり描き手と読み手が出会う場であるばかりでなく、重なる場でもある。そして重なるために、僕らは、いや、僕は瞬時に、そこで描かれているものを「すべて」なぞっていることに気がつくのだ。マンガを読むこととは、マンガを描くことの追体験であることがそこから出てくる。/読むことの快楽とは、すなわち描くことの熱狂でもある。〉(178~179p)

※共有への配慮があるが、基本的に「ぼくらのマンガ」「マンガ=ぼくら」という時代的、世代的な宣言(プロパガンダ)性が前面化している(「表現論」もまた同じ基盤を持つ

秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ -マンガとマンガ映画―』NTT出版 2005年

石子〈各コマを受けとる時間もまた、受けてのものなのである〉(前掲書70p)を引き、加藤論文を紹介。

〈マンガの「愛の時間」は、どこまでも個人の中に形作られ他人と共有することが難しい時間であり、この種の時間が存在するかぎり、マンガは読者の積極的鑑賞による作品世界への参加を要求するメディアでありつづけるのである。〉(207p)

※マンガ固有性の称揚文脈(歴史的な劣位文化の過剰な宣言性

※「コマ」という対象の歴史性に注意

メディア体験としてのコマと紙面 

1)絵とコマ 

コマも絵も線である → どう違うのか?

佐々木マキ『うみべのまち』 ガロ68.9臨増

絵の独立性(説話行為としての時間順序の消失)→コマのデザイン区画化(時間分節性後退

それでもマンガに見えてしまうもの 感傷的な気分の連続性

 絵の記号性(マンガとして蓄積された種類の)→キャラ性

 吹き出しと文字 コマの構成法 同じモチーフの音楽的反復(空間反復→時間化

マンガであるかどうかより、マンガの中にあった「面白さ」快楽があったこと

線の多義性、コマの持つ時間分節の規定性の相対化→ 自作(『青春マンガ列伝』101p

2)コマとは何か?

コマの実験 真崎守『眼の中を夜がさまよう』71年(『青春マンガ列伝』125p→現『あの頃マンガは思春期だった』ちくま文庫 

手塚治虫『火の鳥 宇宙編』COM69年 角川文庫9 石森章太郎『ジュン』の影響

トリッキーな構成 空間の並列と相互の時間関係 吹き出し=コマ 回転する時間(閉塞

余白の意味 孤独、浮遊、よるべなさなど → 少女マンガにおける余白、絵のないコマ

作品内で見えるもの=絵? 1)コマ、2)吹き出し、3)動線、形喩=記号群 3)は絵?

作品内での「現実世界」具体的対象=絵、記号群 →コマ=絵を単位として区画統御する枠組み?

2)吹き出しは絵? コマと同類? 言葉を単位として区画統御する枠組み?

とりあえずマンガを構成する要素として 絵(線)、コマ、言葉(文字)

3)前衛的コマと少女マンガ

60年代後半期におけるマンガの表現形式への注目 佐々木マキ、石森、真崎、宮谷

『ファンタジーワールド ジュン』

池田理代子『ベルサイユのばら』 娯楽としての「変則的」コマ構成

大島弓子

少女マンガのコマとレイアー構造

写真、映画的な分節意識(カテゴリーの生成)が、マンガ的なコマへ?

コマこそがマンガの時間を豊かにする(絵画的瞬間静止からの離脱 複製

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