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夏目房之介の「で?」

日本橋ヨヲコ『G戦場ヘヴンズドア』の「名言」

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去年ゼミの学生から誕生祝にもらったこのマンガ、間違いなく面白くて読み出すととまらないんだけど、お話は基本ご都合主義。
http://comics.yahoo.co.jp/shogakukan/nihonnba01/zihhsenn01/list/list_0001.html
かつて特別な関係にあった編集者とマンガ家の息子同士が偶然同じ学校の同級生で、偶然協力してマンガを描き始め、新人賞に受かり、ライバルになる。しかも、天才的な才能を持っているらしい少年は、もう一人の境田という少年の父親で売れっ子マンガ家と、偶然出会っていた。マンガ家は、そのときたまたまマンガ家をやめようとしていたが、少年が川に捨てようとしていた作品を見て思いなおし、その作品をもらって保存し、彼に届くようなマンガを描こうと思う・・・・。
すべてが偶然むすびついているのだ。何か大昔の少女マンガを思い起こすような、人間関係のドミノ倒しだ。そう考えてしまうと、入り込んでいる気持ちがやや押し戻されるのは事実。でも、面白いんだけどね。
なぜ面白いか一言でいえないけども、一ついえるのは、この偶然連鎖と関係のほぼない人物、二人の少年と三角関係を持つ少女・久美子の造形が一番面白いからだ。彼女と、売れっ子マンガ家の愛人とされていて、しかも息子と関係をもっている女・裕美子が、キャラクターとして魅力的なんである。その部分が、ご都合主義なストーリー展開にも奇妙なリアリティを生み出している。

もう一つは、時折出てくるマンガを作ることに関する「名言」の場面である。以下に、いくつかを列挙してみる。


日本橋ヨヲコ『G戦場ヘヴンズドア』小学館 「名言」集

裕美子〈読者はあんたのファンじゃないのよ。がんばって読んでくれるなんて思わないことね。誰にでもわかるように作るのが、一番むずかしいのよ。〉2巻 03年 7 12p

 これは実際編集者がいってもおかしくない言葉だろう。この言葉の寸前に裕美子は、境田のネームに具体的にムダを省く指示をしているので、なかなか説得力がある。

アシスタント歴の長い新人マンガ家〈これでも私は、自分が本物ではないことの自覚に誇りを持っているの。[]本気でうそをつく仕事なのよ。あなたの描くうそは、誰かがお金を払ってでも騙されたいものかしら〉同上 10 14p

 これも「本物」とか「ウソ」とかいう大衆娯楽表現につきものの側面についての解毒作用を持つ言葉で、ある種の水準を維持するために有効なもののように思える。

境田〈漫画家に必要なものって、[]才能じゃなかったら、何なんスか? 本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか!?

漫画家〈人格だよ〉同上 11 25p

 これは、ある種理想化された言葉ではある。一見、きれいごとにも見える。でも、技術や主題やメディアの力をとりあえず「越えた」レベルを想定すると、たしかに「人格」としかいいようがない要素が残るかもしれない、という印象がある。実際に作品を作る現場では、ある抽象度でこの言葉が有効な場合はあるだろう。また、その抽象度が一般読者にとってわかりやすい「面白さ」に転化しうるあたりが面白い。

編集長〈マンガは練習するもんじゃない。覚醒するものだ。己に抗った者は、いつか破綻する。〉3巻 03年 13 25p

これも同様。娯楽としてのかっこよさがある。「覚醒」ともいえる瞬間は事実あるだろうと思わせる。

境田〈マンガって絵と話だけでできてるんじゃないんだな。意志でできてんだな。〉同上 17 30p

同上。

こういうセリフが効果的に組み込まれているというところが、じつはマンガ業界物ではなく、むしろトラウマ青春物であるこの作品にリアリティを与えているのかもしれないな。

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