オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

現代マンガ学講義23 マンガのコマとは何か(2)

»

2008.12.4 現代マンガ学講義23 マンガのコマとは何か(2)  夏目房之介


1)ホガースとテプファー スコット・マクラウド『マンガ学』の評価


〈絵物語の洗練〉→18C.ホガース 〈ホガースの物語は、最初は絵の連作として展示され 後に版画の連作として売られた  絵も版画も横に並べ、ひとつながらにして鑑賞した〉『マンガ学』美術出版社 25p

〈ルドルフ・テプファーこそさまざまな意味で近代マンガの父と言えるだろう。彼は19世紀中頃から発表した風刺絵の中で 絵のデフォルメやコマ割りを始めた。またヨーロッパで最初に、言葉と絵を補い合うような形式で使い始めたんだ〉同上


〈20世紀〉〈やっと僕らの知っているようなマンガが登場〉同上26p キャラクターとマンガ

2)テプフェールとササキバラ・ゴウ「まんがをめぐる問題」

ホガースの連続絵
〈ホガースの選んだ手法の「発展」とは、1枚の絵の中の情報量を上げていくことであり、[略]1枚の情報量が上がると、それを見る者の「滞空時間」は長くなり、その絵の中で成立する意味も増えていくことになる。その分、絵の自立性は高まるが、それに反して「連続性」の効果は、相対的に印象が弱まることになる。〉ササキバラ・ゴウ 19「ホガースの連続画[2]」「Bfore and After」をめぐって」より
テプファーのマンガ
〈1コマ1コマには商品価値を求める必要はなく、むしろラフな描き方で「かきとばしている」。だからこそ、見る者はひとつひとつの絵には執着することがなく、結果的に、連続性そのものがむき出しになって前面に表れる。絵そのものが語るのではなく、絵と絵の関係が語っているのだ。[略]観照者の補足とは、つまり生産力を持った読者ということであり、それは戯画的な画風の特徴であるととともに、コマ割り表現の特徴でもある。[略]テプファーにおいては、1コマ1コマの絵の相対的な「無意味さ」こそが、連続による生産性を引き立てていた。それに対してホガースは、1つ1つの絵そのものに饒舌に語らせようとしていく。〉同上

まとめ
1) ホガース→テプファーの変化は、相対的なもので、徐々に変化した特質の1側面である
2) それは絵の「意味」と自立性、及びそれらが形成する「時間」「連続性」の前景化との対照として描出されうる
3) すなわち、両者を貫く変化の本質は「連続性」という不可視で抽象的な「関係性」そのものの規範・範疇としての強度の差である(「・・と・・」の想像力
4) この現象は「絵」の質と相乗的に成立する(絵とコマの相互依存性
5) また、この表現と受容の運動は、読者の補完作用との強い関係で成り立つ
モデル
二つの「反復」 反復1 A/B/C(  ) E    A(a)B/C/D(a’)E   可視範囲 
  省略コマ ↓     ↓ ・・・・ ↓  反復2
                    D       (a~anの系列)  不可視の「関係」
反復1の例:同じ部屋、同じ椅子の上で懊悩する主人公の連続コマ
反復2の例:下着を替える主人公、水車に巻き込まれて回る恋敵
省略コマの例:梁とともに右方へ走る主人公と、急に左方へ戻り門にひっかかった梁の絵の間に起きたであろう事柄

思想史的な理解
18C. ホガース 「現実」反映としての「表象」 観相学(性格→顔) 自然科学的な反映論
19C. テプファー 「等価性」(アフォーダンス)としての「現実」と「表象」(表象の自律→創出・類型としての「性格」 視覚文化の変容(自然科学的な「知覚」観への「身体性」の介在

〈人間の知覚は、ありもしないものを表象する。[略]実在と自分の表象は、素朴な反映関係にはないということだ。そこで、両者を媒介している「身体」というものが問題になってくる。/ジョナサン・クレイリーはヨーロッパの視覚文化の歴史を研究する中で、目の残像現象の研究が本格的に始まり生理学という学術分野が出現した1820年代を、このような対応関係が崩れた大きな歴史の変換点ととらえている。〉→〈カメラ・オプスクーラ〉 ササキバラ「15 テプファーの時代と視覚の変容」より
〈この時代のヨーロッパの視覚文化の変容が、テプファーの表現と密接な関連を持っていることを考えさせずにはいない。〉同上

仮説1 コマ相互の関連が前景化して、同一キャラクターをいくらでも登場させ、そこに「キャラ」としての強度を時間的に表現する様式を確立したのち、現代のキャラクター文化につらなる説話文化が成り立ったのでは?

仮説2 西洋近代の「視覚」をめぐる思想的変容(背後には資本主義システムの社会化が?)が、「大衆」的な補完作用を持つ視覚伝達型説話の様式成立の条件であった?

仮説3 西洋の近代連続マンガ様式は、まず「コマ」性という強い範疇・規範性の、印刷媒体ごとの輸入によって日本にもたらされ、さらに新聞連載マンガと多くのコマ、吹き出しによる説話文法としてメディアの確立とともに移入された?

3)コマをめぐる原理的思考

○コマの間白と補完作用 「大衆」の意味
〈いささか大げさにいうなら、連続マンガの面白さの活性は、肉眼では見えない。とりわけて劇は、むしろ描かれていない部分で展開されるはずなのである。/[略]指摘したいのは、連続マンガのコマとコマをつなぐフレームの線によってできる空白の帯の部分の意味作用の論理である。連続マンガのおもしろさの秘密や、劇展開のダイナミズムは、あの空白部分にあるのではなかろうか、とぼくは考えている。〉石子順造『現代マンガの思想』太平出版社 70年 67p
中井正一の映画論 コプラ(繋辞)の論理 「である」「でない」など言語が持つ否定肯定の繋辞を持たない映画カット →観客の補完による連続性 →〈連続マンガの大衆性とコマの文法との重要性が、ほぼ適切にいい当てられるのではなかろうか〉同上 68p 〈各コマを受けとる時間もまた、受け手のものなのである。〉同上 70p

○コマの記号的性質 言語と絵(シンボルとイメージ)の対照と混交
〈マンガの定義は、
  コマを構成単位とする物語進行のある絵
 というものであった。これを、記号論の用語を使って言い換えてみると、
  現示性と線条性とが複合した一連の絵
 とすることができる。[略]「現示性」とは、一般絵画や写真などの場合のように、そこに表現されたものが、一望で全体的につかめる性質である。[略]「線条性」とは、鑑賞者が表現物の部分を辿りながらそれを集積することによって、全体を一つの流れとしてつかむことができる性質である。[略]
 マンガは、コマの内部において現示性が鑑賞され、コマのつながりにおいて線条性が観察される。〉呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版 86年 100~101p
 線条性→言語、時間分節 現示性→絵画、空間性 絵物語、アニメーションとの比較
 〈マンガにおいては、コマは単に現示性を担うだけではなく、線条性も担い、それ故にさらに細かい分割が可能〉同上 103p アニメのカットの時間とマンガのフレーム技術
〈少女マンガでは、独特のフレーム使用が、コマとコマとの線条的つながりを崩す作用をしている。〉同上

○コマと絵の相関性 言語/絵+コマ概念による三要素理解
〈マンガという表現には絵とコマをふたつの極とするふたつの〈時間〉流があって、このふたつの流れのそれぞれにむずびめや盛り上がり点といった場所がある。そして絵の〈時間〉のうえでのむすびめと、コマの〈時間〉のうえでのむすびめがズレたり、シンクロしたりしてマンガ表現の総体の〈時間〉の流れをつくっているのである。/絵とコマは可視的なものだが、それがおりなす〈時間〉(小単位のプロットから大きな物語にいたる)は不可視なものである。さらにいえば、絵とコマと〈物語〉の〈時間〉の流れの相関が、われわれが〈読んでいる〉総体の〈時間〉なのである[図版38]。〉夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』ちくま文庫 117p 図版38 118p 初出92年

○連続コマの成立とキャラクター
〈二度と同じ顔が描かれることはない。
 同一の顔を際限なく描き続けることができる。〉四方田犬彦『漫画原論』ちくま文庫 186p 初出94年

○コマの重層的時間
〈マンガ表現に内在する時間について、その要点を指摘した。A一コマ内部の時間、B隣接する相互の時間、Cストーリーとしての時間。[略]マンガの時間は、A → B → Cの順に重層化し、その過程で、自然の時間とも人間の時間とも異なる、マンガという独自の物語の時間を、読者の内面に形成しているのである。〉竹内オサム『マンガ表現学入門』筑摩書房 05年 192~193p

○コマと画面(紙面)/フレームの不確定性 コマ概念の再検討
〈マンガにおいては「画面」として認識されるものに複数のレヴェルが混在していることがうかがえる。それは、本書でいう「紙面」と「コマ」のふたつのレヴェルである。ここでいう「画面」とは、映画でいう「フレーム」に近い意味のものである。/もっといえば、マンガでは「フレーム」は、厳密には「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。この不確定性こそが、マンガをマンガたらしめており、かつ「とらえにくさ」をもたらしている。さらにいえば、これが映画との決定的な差異なのである。そして、これまでのマンガ表現論が明言してこなかった特性である。/これを「フレームの不確定性」と呼ぶことにしよう。[略]フレームの意味がより「映画に近く」なった状態を私たちは「映画的」と呼んでいるのである。〉伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』NTT出版 05年 199~201p  60年代後半期の「コマ」言説の成立
 

仮説4 現在、マンガをマンガたらしめている表現様式として「コマ」が語られるのは、歴史的な事態であり、「コマ」はそれにふさわしいマンガ作品の登場と「読者/作者共同体」の確立にともなって「発見」された?

〈見開きページは、人間の視覚のなかに一度にとびこんでくるという印刷媒体の利点を活用し、コマ割りでドラマの経過に同時性を持った。時間を自由にあやつった。なによりも映画やテレビが、一方的にあたえるものであるのに対し、まんががコマ割りの中に、読者の想像力を参加させるという発見をしたことは大きい。[略]B型[コマを持つマンガ]の本質は、ストーリー・まんが・劇・画という話と絵にあるのではなく、コマそのものにあったのだ。〉峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」 「COM」68年3月号

3)コマとは何か、についての留保

A)コマ的なるもの 前近代の諸表現をどう考えるか 吹き出しの盛衰?
B)コマと吹き出しの歴史的関係
C)前近代的諸表現を「断片」として総合した生成物を近代マンガと考えてよいか?
D)テプファーのコマが画期的な文法の発見だったとして、それはいかにしてその後の新聞マンガのようなキャラクター説話となったか(大衆消費社会との関連
E)資本主義のシステム、運動の社会化とマンガ成立の関係
Comment(0)