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夏目房之介の「で?」

グルンステン『線が顔になるとき』以降のゼミ

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大学院のゼミは、学部生も受講可能な批評研究ゼミ(4限)と、修士・博士課程の演習ゼミ(同日5限)の2コマあるが、今は全員4年の学部生にできるだけ発表をしてもらっている。マンガに関係なくてもOKで、先週は高畠華宵だったし、今日は大島弓子論だったが、これから江戸の見立てとか、藤田嗣治なども予定されている。

一方、5限のほうは、原さんにグルンステン『線が顔になるとき』の発表をしてもらって以来、笹本純氏論文「描かれた顔における「向き」の類型性」、ササキバラ・ゴウ氏「まんがをめぐる問題」(ブログ)、四方田犬彦氏『漫画原論』の顔をめぐる議論、吉村和真氏論文「〈似顔絵〉の成立とまんが -顔を見ているのは誰か-」と、それぞれ博士課程や聴講生に読み直して発表してもらい、討議を進めている。グルンステンの問題提示の枠組と、日本側のそれとを比べ、どんな問題として考えられるのかという議論は、僕にはなかなかスリリングで面白い。
BDの国で生まれた議論が、そのままでは日本側の問題意識とすりあわないという僕の疑問から始めたのだけど、案外そういう発想って学術的な領域からも、知的な批評の人たちからも出てきにくいのかもしれない。
でも、あきらかに似たモティーフを議論の的に持っていると思われながら、その描出の枠組
が異なるためにそもそも議論になりにくいという状態では、BDと日本マンガの市場的な隔離同様のすれ違いが研究でも起こるんじゃなかろうか。それって、せっかくグルンステンが翻訳されても、結局何も共有されず、コミュニケーションにもならない、もったいない事態になるんじゃないかと思う。そんなこともあり、とりあえずこの主題での議論を続けてみたい。
演習のゼミ生は、ほぼこのブログも読んでると思うので、ここで書いておくけど、ある程度進んだところで、これまでの議論を誰かにまとめてもらおうかと思っている。デキがよければ、このブログで公開してもいいな。

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