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夏目房之介の「で?」

「マンガと暴力」3清水玲子『秘密』レジュメ

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現代学3回の担当、ようやく終わりました。いやあー、超苦手な領域なんですっげー緊張したし、疲れた。勉強にはなったが、とりあえず終わってホッとした。1日2本の講義が10分休憩で続くって、慣れないとけっこう大変だね。

2008.10.09 現代学講義「暴力論」 「マンガと暴力」(3)清水玲子『秘密』論

06)マンガにおける虚構と現実

[手塚治虫、浦沢直樹、長崎尚志『PLUTO』の〈第三十九次中央アジア戦争〉のフセインやアラブ問題と米国の関係という「現実」の反映について] 〈テレビやマンガで見た物語をごちゃ混ぜにしてつくりあげたような主人公たちの子供時代の遊び「よげんの書」がカルト宗教によって破滅的な悪夢として現実化されていってしまう、というこの作品[浦沢『20世紀少年』]はそのプロットそのものが作者自身の「サブカルチャーの消費者でしかないままに大人になってしまった自分たち」への自己批判とでもいうべきものであり、私の感覚では日本のサブカルチャーの原型になっている欧米の文化、そして戦後の大衆文化がそのようなものになってしまった直接の原因である「戦争」への視点は、こうした形で自分たち自身の問題として戦後のサブカルチャー批判をおこなう場合は不可欠な切り口になるはずのものだ。/にもかかわらず、浦沢のこの作品は奇妙に日本という空間に自閉した物語になってしまっており、世界は「凶器としてのサブカルチャー」とでもいうべき「よげんの書」に基づいてひどくあっさり「滅亡した」と書かれてしまう。この『20世紀少年』では起こりすらしない「戦争」が、なぜ『PLUTO』ではひどく無頓着に語られてしまうのか?小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』NTT出版 2007年 199p

→小田切は『PLUTO』の秀逸さを認めつつ、そこにマンガと「戦争」(現実)の関係の奇妙な「ナイーブさ」を指摘 →手塚賛歌として「反戦」「米国批判」「戦後民主主義的テーマ」を引き込み →手塚自伝の「マンガ集団の戦争責任」看過 〈彼らはただ単に「マンガ家である」ことによって肯定される。〉同上 207p

近藤日出造らマンガ家の戦後「転向」と驚くべき無葛藤(新聞も同様 (参照 石子順造『戦後マンガ史ノート』紀伊国屋書店 80年、梶井純『執れ、膺懲の銃とペン 戦時下マンガ史ノート』ダイズ出版 99年) 

〈つまり、手塚はとにかく「自分という存在」によってマンガすべてを肯定しようとしたのではないか?〉

〈少なくとも手塚治虫の中では「まんががまんがとして」あるためにはあらかじめ戦争や政治といった外部の力学を内側に抱え込みながら、その力に流されず自覚的にエンターテインメントなりサブカルチャーであろうとするような意志、視点が不可欠であったのではないか。〉同上 207p~208p

→「マンガがマンガ自身であること」(それ以外の排除)=ジャンル自律性の獲得(70年代)における「マンガをマンガとして語る」言説 マンガ(大衆文化)の娯楽性=非政治的中立性の獲得と、その場に「政治」を含む「現実」を反映させる「自由」の獲得 →戦後マンガの一種の特権性の継承?

戦中戦後の「軍国主義」と「左翼」イデオロギー的「プロパガンダ化」への反動→表現作品の自立性強調

笠井潔とオウム事件の関係と言及に触れ〈[笠井の言説は]「サブカルチャーがサブカルチャーとして存在する」ことを自明視し、意図的にサブカルチャーと社会的現実のあいだの関係を隠蔽しようとするものである点で、一見矛盾するようだが、前述した現在のマンガが無意識に持つ「マンガというフィクションが現実へのコメンテーションでありうる」という無邪気な確信と相互補完的なものであるように思える。つまり「現実とは無関係な独立した安全圏だから安心してコメンテーションできる」という構造がそこにはあるように思えるのだ。/そこには現実とサブカルチャーの相互関係を問うような視点こそが決定的に欠けている。同上211~212p

〈はっきりいえば私はマンガとはまず単なる娯楽であり、逃避のためささやかな消費財であることにこそその本質があると考えている。[]実際に「9・11」後のアメリカ社会のなかでこの当たり前の事実、マンガが「単なる娯楽」であることはいかに困難であったかはすでに見たとおりである。〉同上 291p

1)消費娯楽の「面白さ」=読者への「影響」、宣伝効果、マンガが「現実」に対して持つ影響関係

2)大衆娯楽的な本質→「現実」を反映(読者作者共同体の共同無意識の表出)

3)両者は同じことの表裏 →バッシングに対し「自立性」のみを主張する論の見直し

マンガの世界化とともに、表現規制や表現・出版の倫理の問題となってくる

「暴力」表現の影響論への反論(たとえば暴力表現が実際の殺人事件などと関連づけられた場合

1)    表現は本来的に自由であり、その規制は健康な社会としてできるだけ避けるべき(自然権的発想

2)    具体的作品と犯罪の影響関係を立証することは不可能で、論理的に成り立たない(法律運用論的

3)    表現と犯罪の関係を仮に認めたとして、作品受容者すべてが犯罪に至るわけではない。逆にいえば、犯罪を成立させる因果関係は単線的ではありえず、つねに複合的多層的で、立証決定できない

いずれも、じつは表現と現実の関係を否定せず ただ個々の言動を「決定」する主因とは見なさない

「暴力」 現実とファンタジーを、どこで線引するか?

→殺戮に「快」を感じる心的過程は「現実」にある確率で存在する(政治テロや快楽殺人)

→象徴的制度的「暴力」も不可視の「制度」という共同観念により生まれる(国家、民族、戦争)

不可視の「暴力」の市民社会における問題化 無意識の共同観念が「差別」「抑圧」などの「暴力」と化し、問題化され、そこに新たな「監視」という「暴力」を生む時代

07)清水玲子『秘密』と視線の「暴力」

『月刊MELODY 白泉社19993月号読切『秘密 ―トップ・シークレット―1999』掲載後、2001年~同誌『秘密 ―トップ・シークレット―』連載開始。20084月より『秘密 〜The Revelation〜』日テレ系アニメ化放映中。

2060年以降、架空の科学捜査法により死後10時間以内の脳内映像記憶を再生するMRI捜査。

脳内の視覚情報 図1 清水玲子『秘密』3 白泉社 2007年 122~123p 幼児期虐待を受けた子の脳内

〈少年は母親の顔をみようとしない〉〈たまに視界に顔が入ってきても〉〈いつも顔はない〉

 人は機械的にカメラのように「見て」いない 視覚野入力を脳の諸所で処理した結果=「視覚」

 (どこまでが「現実」か定できない曖昧さと、なぜ人は確たる「現実」を確信できるのか、という問題)

「もっとも私的な領域」への侵犯 図2 同上2 2003年 166~167p 

一家惨殺事件の生き残り長女捜査→「恥ずべき窃視」?→父の幼時性的暴行→長女の性的放逸と父の窃視→父の死刑受容と長女の性犯罪暴露 →視線と記憶の怖さ 記憶を視覚化されて覗かれる「暴力」

MRI捜査の生む犯罪 図3 同上3 2007年 138p 〈奴は見せたがっているんだ 我々警察を通して〉〈見殺しにした少年達の卑劣さを その末路を〉 幼児期に殺害、暴行された兄妹と、現場を目撃しながら逃げ、助けも呼ばなかった少年達への復讐譚 視線記憶の操作と恐怖(妹が自分の去勢現場を見ていた恐怖→妹への自己同一化→ 図4 同上 241p 自死しようとする犯人を嘘で止める捜査員

感動的な「嘘」に感情移入した読者に「美しい兄妹の記憶」の画像とともに冷酷な後日譚を提示

図5 同上 262~263p 「現実」に帰す手続き ※近未来設定だが、あきらかに「現在」のお話

視線と記憶、及びその抹消についての問題意識は、浦沢直樹に共通する(『PLUTO』も)

視線の快楽 少女マンガ的な「花」の意匠化された解剖死体 図6 同上2 26p

「監視」する側の恐怖 脅迫される薪 図7 同上2 33p 薪の脳=捜査上知りえた「秘密」記憶 →権力にとって魅力で脅威→ 視線と記憶の恐怖の相互依存性 制度権力の「監視」の両面

「権力」の罪悪感 薪内語〈死んだ人の「脳」を 死んだ人の「秘密」を見てきた 「犯罪捜査」という名目で 何の断りもなく 白日の下に晒し続けてきた 故人の「生活」を 「情事」を 「過去」を 「犯罪」を 「恋情」を その自分だけが 死後も「秘密」を 守り通す〉〈そんな勝手が許されるのだろうか〉同上4 220~221p

図8 同上4 2008年 232~233p 強迫神経症に近い薪の用心深さ 不眠

 眠りと「寝言」の恐怖 近代人の「病」 漱石など文学的な恐怖症

泉鏡花『外科室』の引用 伯爵夫人は麻酔で眠り、うわごとで秘めた医師への恋を語ってしまうのを恐れ、麻酔なしで胸の手術を受ける〈このくらい思っていれば 吃と言いますに違いありません〉 同上 239p

近代的主題 現代的な「見えないことの恐怖」「見られることの恐怖」そして「快楽」

「見える事」「見えない事」「見ない事」「見えている(と思っている事)」視線と記憶を巡る「見えない暴力」性

図9 同上1 2001年 214~215p 作者のあとがきマンガ〈私がこういった事を考えるようになったのは数年前 小学生の男の子が学校の校庭で殺されて 容疑者の少年が飛び降り自殺をして真相は闇の中・・・・となってしまった事件がキッカケです〉〈哀しいというかやりきれないというか いやそれよりも 容疑者の少年が死んだら 何もかもがあやふやなまま終わるしかないというのが とにかく気持ち悪くて〉 →もうひとつの理由(「記憶」をたどると、好きな男の子の写真がほしかった中学時代へ 視線と記憶の欲求

現代の我々が自らの内に持っている欲求と快楽、リスクに対する防衛衝動が、同時に「監視」の制度的暴力にもなりうる循環 →現代社会の構造 虚構・現実の境界曖昧化 「暴力」の不可視性

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