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夏目房之介の「で?」

『マンガの読み方』を作った頃

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自主ゼミで『読み方』についての発表があった。事前に『読み方』の制作資料をひっぱり出して研究室に並べた。
宝島社から依頼があったとき、たしか『描き方』のような依頼だった気がするが、そうじゃなくて『読み方』にしよう、表現論の共時的な展開をやろうと提案し、ついては竹熊、小形の協力をあおぎ、定期的に研究会を開いて議論を積み重ねて作ることにした。
ほぼ1年半にわたり、毎月一回、土曜日の午後一杯かけて編集者二人、僕と竹熊、そのほか僕の講演などにきてくれていた知り合いの学生や当時サラリーマンだった斎藤宣彦などが、随時集まってテーマごとに発表・議論した。むろん一銭にもならないので、多少の原稿料では単体では全然合わない仕事だった。これがきっかけできた仕事(たぶんNHKの人間口講座なんかもそうかな)も含めれば黒字ですが。

最初はまずのちに『手塚治虫の冒険』にまとまる講義のおこしをもとに戦後マンガ史年表を作りつつ、テーマ出しをし(そこまでで4ヶ月くらい)、テーマをもとに構成して、コマ、線や絵、記号、言葉などにわけて数回ずつ議論。この回ごとの発表資料、メモ、図版などが袋わけにして20個以上ある。

当時も思ったけど、今考えてもじつに冒険的な本で、宝島の担当編集、フリー編集の小形に、元編集者に編集者もするライターの僕と竹熊、この4人以外は来るのも来ないのも自由の素人ばかり。大学生、サラリーマン、マンガ家、アシさんなど、これら素人との議論が重なり、最終的には彼らの中からも執筆者が数人出て、その中で業界に残ったのが斉藤ということになった。ムチャである。しかし、まるでジャズコンボのアドリブのような奇跡の集団力学が働き、のちに多大な影響を与える本となった。ターヘルアタトミアな時代・・・・というべきか。

資料のはじめのほうに僕の企画ノートがあり、それに対する竹熊の参考意見があり、担当者のコメントもあり・・・・なかなか面白かった。何つーか、これすでに歴史なんだよなー。感慨・・・・。当時、どのあたりで議論を抑制し、どのレベルまで出すかとか、けっこう考えたのを思い出した。何せ、こんな本の読者がいるなんて思えない時代だったからねー。イズミノ君の脳内アングル的な発想はすでにあったけど、この時点では抑制的に考えてたとか。

ゼミには斉藤君もきてくれたので、記憶を補足できた。
考えてみたら、これこそゼミだったよね。
もっとも、来るも来ないも自由な集団での話で、大学とは場が違うけどさ。
ま、ゼミ自体はできるよな、っていう自信は『読み方』の経験で、けっこうあったんだけどね。

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