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夏目房之介の「で?」

キャラクターと著作権

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昨日の大井先生の話で、著作権判例では有名な『POPEYE事件』(あまり似てないポパイの図像と「POPEYE」の名を使った商標シールを著作権者が訴えたが、著作権の保護期間を過ぎているとして退けられた)について、僕も以前判例集で読んでたけどちゃんと理解できてなかったな、という点があった。
僕は「マンガの連載は、第一回目が原著作物で、二回目はその〈翻案〉(=創作性を加味)、すなわち二次著作物であり、三回目は二回目の、四回目は三回目の二次著作物である」っていう理解がオドロキで、それしか印象に残ってなかった。
が、それはあくまで「ストーリーと一体になったマンガ作品」についての理解であり、じつはポパイのキャラクター自体は原著作物にまったく同じ図像を見いだせなくとも(格好も服装も表情もまったく同じ図像は実際には見いだしにくいし、ましてヘタな模写なので似てない)、アキラカにそれとわかる以上、キャラクター単体としては〈複製〉(まったく同じもののコピー)である、と理解されたという。
もし、「翻案」とされれば、作家を変えて現在も連載が続くような米国式のマンガでは、始まった時期にかかわらず、その保護期間は連載ごとに延長されるが、キャラクター単体としては、その最初の連載が始まった時点の起算になり、保護期間はすでに終了しているという判断だったわけだ。

ここで重要なのは、日本の裁判が「ストーリーと一体となったマンガ作品そのものとキャラクターを別個に判断した」ということで、あくまで実体的なモノについていわれるとされた古典的著作物性理解(抽象的なアイデアそのものに著作物性も著作権も認めない)を離れ、マンガのような図像キャラクターの場合、ある程度抽象的なデザイン様式として著作物性が認められたということだろう。つまり、実際にマンガ作品の中にあるキャラクターではなく、それらから抽象され受け取られた個性としてのキャラクター、あるいは他の媒体などに移し変えられる抽象的存在としてのキャラクターに固有の著作物性を認めたのである。
このことで、ビジネスの現場や視聴者・読者にとっての実態である「抽象的なキャラクター」という存在の仕方を認め、そのために古典的なモノにつく著作物理解という著作権法の基本スタンスをある程度越えているってことだと思う。

もともと、法というものは常に現在からすれば「古い」もので、新たな状況に拡大解釈で援用するしかない本質をもっていると思われるので、このこと自体は法の運用として当たり前なことなのかもしれない。ただ、その分「解釈」の体系が、極端な話、天動説で天体運行を理解するような、一般人にとっての難しさになったりする。
また、様々なメディアや商品に等価にまたがって存在する「遊離した」キャラクターという存在(伊藤剛的にいえばキャラ)について、著作権法を対応させようとしている、ということでもある。マンガ論ともそのへんで重なってくる議論だろう。逆にいえば、法はマンガ・アニメなどキャラクター産業の実態を反映せざるをえない。
著作権法自体が近代主義イデオロギーで云々(もちろん、そりゃそうなんだけどね)という、ある種わかった気になりやすい議論から著作権法不要論にいたるようなのは僕にはいささか安易だと思うし、そもそも法自体はどうしたって必要なので、それを押さえた上でマンガ・アニメにとってもこの法的な現状は押さえておくべきだろう。

というようなゼミであった(はずである)。
大井先生、ありがとうごぜました。

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