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夏目房之介の「で?」

彦根講演「平凡寺と「我楽多宗」」(9)終 質疑応答

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 平凡寺は発明もしました。しなくてもいい発明をする。たとえば僕が聞いたのでは、瓢箪を買い込んできて乾かして、穴を開けてパイプにして紙巻タバコを吸う。肺活量がいるので結構大変だったとか。要するに、瓢箪の繊維がフィルターになるんでしょう。これは、実際作って銀座のタバコ屋店に卸していたらしいです。宣伝用に自分で書いたビラもあります。多分、売れなかったんじゃないでしょうか。売れたって話聞いたことが無いですからね、この人の場合。

   写真17 「瓢箪パイプ」の宣伝チラシ       写真18 焼け筆による作品 小林清親作

もうひとつ僕が聞いたのでは、焼け筆というのを発明。筆状の物の先にプラチナを仕込んで、高温のガスを送り込んで、木の上にものが書けるようにした。つまり直接その筆で彫るように木を焼いて、木の上に字を書いたり絵を描いたりする。かなりちゃんとした絵や字になった木を額にしたものを僕も持っています。僕の寝室の上にかかっていますけれど、なんか夢見が悪いのはそのせいかなと思って(笑)。平凡寺は、小林清親に絵習ったりしてますから絵もうまい。癖はあるけど書もうまい。

ただ、この焼け筆で問題なのは非常に扱いが難しかった。ちょっとでも筆が止まると焼き付いちゃうらしいんですね。発想はいいけど、肝心のとこが変。もっと問題なのは、熱い空気をどっから送り込むか。筆にチューブが付いていて、後ろでふいごを吹いてる人が要る。これが奥さんなんですね(笑)。やっぱり迷惑な話なわけですよ。一人でできないんだから。結局人に迷惑をかけることになるような人ですね。

でも、面白いからしょうがないよね。何か、僕の育った夏目家には、とりあえず面白いから許してしまうという家風があったような気がします。三田家の血でしょうかね。まあ、お陰で僕もこういう仕事で生きていけてるのかもしれませんが。

でも何が迷惑って、大正6年の夏に撮られたこの写真ですね(笑)。こんな所で見せると伯母が化けて出て来るんじゃないかと思うんですが(笑)。自分のうら若き娘を裸にして、写真を撮っているんですよ(笑)。ひどい話ですよね。これ今だったら訴えられます。セクハラとか言うレベルじゃ無い。平凡寺は彼女らのことを「ヘーボン嶋カン族土人少女」と書いてる。伯母は「ほんとに嫌だったわよ」といってました。そりゃ嫌だったでしょうね、胸出てますもん(笑)。しかも髑髏抱いてるんですよ。ひどい話でして、でもこれが一枚じゃない。他にもありまして、それをいまだに大事に持っているのもなんですけれども。家に奇人変人がいると、いかに迷惑かという証拠の一枚ですね。うちの母親は子どもだったので難を逃れています。上の三人の姉妹です。

  写真19 「ヘーボン嶋カン族土人少女」(禁売買譲与) 写真20 「趣味山入口」

こちらが戦争で焼けちゃった前の家の庵だと思います。同じく大正6年の夏の写真です。ここに自筆で「昭和二十年ブッコワサレタ」と書いてありますね。まあ、アメリカ軍に壊されたのか、自分で壊したのか分りませんが「第三、趣味山の入口」と[註 戦争中、強制疎開のときに壊されたという]。例によって髑髏がありますね。下っているのはインドネシア、ジャワの影絵だと思います。これは一体だけ今も僕が持っています。ここには「俳諧や茶の湯を知らぬ気やすさに 月雪花も寝ころんで見る」と書いてあります。大仰な型にはまったことが嫌いな人だということが分りますね。

奇人変人が家族にとって迷惑なのは分りますが、じゃあ漱石のような偉い人なら迷惑じゃないかと言うとヤッパリ迷惑だった。いろいろ調べてみたらあの人は不幸な生い立ちだったので今で言うところの強迫神経症、被害妄想が強くて、その大変な迷惑が家族にはあったようです。鏡子夫人は、一般に悪妻だと言われますけれども、我々遺族から見ると逆でありまして、夏目側の父も叔母もあのお母さんだからもったと言っておりますね。まあやっぱり漱石といえども迷惑な人だったんじゃないでしょうか。だから面白くて迷惑なのか、まじめで迷惑なのかどっちがいいかと言うと、それはそれぞれの好みで、どっちかお好きなほうを選んでいただきたいと思います。

というようなお話で・・・、あと何があるかな。何があるかと探している講演者もいないと思いますけれど(笑)。だいたい出し尽くしたようですね。多分ここに来られている方で、我楽他宗とか詳しい方はですね、こういう話を聞いても今更という感じであろうと思います。実際、僕もあまり知りませんし、本来の研究分野でもないし、そのあたり大変申し訳ないんでありますが、とりあえず平凡寺に関してはこれでだいたいのところかなという感じですね。若干時間が余っておりますので質疑応答・・・、質疑応答と言いましてもね、知らない人に知ってる人が聞くというのも変な感じなんですけど、質疑応答に入らせていただきます。

【質疑応答】

質問者(一居篤氏、我楽他宗第五番札所高橋狗佛の三男)

 失礼いたします。私のことからご説明いたしませんとお分りいただけないと思いますので。私は先ほどお話のありました高橋敬吉(狗佛)の三男でして、今88歳です。で、いささかボケてきておりますので、おかしな事を申し上げるかもしれませんがお許しいただきたいと思います。

私は大正9年に東京の今の麹町、九段でございますが井伊家の屋敷で生まれまして、そこから震災を逃げて新宿の角筈まで女中の背中に乗って逃げたそうですが、ほとんど覚えておりません。この我楽他宗という言葉を聞きましたのは10歳の頃にいわゆる「我楽他宗」と言うものを我が家で催したことがあります。これはもう1週間から2週間前から大騒ぎで警察関係の許可を得て、初台の駅を降りた人がまっすぐ来られるように標識を立てて歩かなくちゃいけない。しかしこれをあまり派手にやりますと、当時の思想的な問題がありましてあまり派手にやるなという注意を受けましたし、というような妙な空気をもらいましたのが私が10歳の時であります。それから父が我楽他宗というなかで犬を、犬といいましても郷土玩具をたくさん集めて、それこそ千島列島から台湾のほうまで歩いて約3000点ほど集めて、何かそこから得たんでしょうか、ひとつの考えを持ったようです。

ところで、我楽他宗と言う所のお方といろいろお付き合いし、あるいは会合を持ったんですが、あれはなにか宗教に関係があるのか、あるいはどういう種類の会合であったのかいまだに分らないままこの歳になってしまいました。ぜひ教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。

夏目

ありがとうございます。高橋さんのご三男さんでらっしゃいますか。エーット・・。

思想的なバックボーンはおそらくないと思います。当時、左翼的な思想であるとかあるいは逆に柳田民俗学とか柳宗悦の運動とかもありましたけれども、僕の知る限りでは会員が個人としてそことつながりがあったとしても我楽多宗そのものの基本的なバックボーンとなる特定の思想とかということだと、どうもないようです。そういう意味では江戸時代からつながっている趣味の世界、趣味人同士のコミュニティの流れだったんじゃないかと思われます。ただ、普段は誰もちゃんとしたものとみなさない物を、もう一回面白がって集めるということ、そういう見方を押し上げる力が時代的にたまたま強かった、ということだと思います。それでこういう集団が出現した。特定の宗教とか理念ではないと思います。三田平凡寺流のユニークな形ではあったかもしれませんし、また狗佛寺さんは狗佛寺さんなりの考え方があったかもしれない。だけども共通の思想なり宗教なりを持っていたという形ではなかったと思います。

これは僕の考えですが、どんな階層であろうとどんな思想を持っていようと、それとは関係なく個人は個人同士で認め合う、個人同士で付き合うというコミュニティの作り方は、江戸時代からあったんじゃないでしょうか。だとすれば、おそらく我楽他宗はそういう流れであろうと思います。あんまりはっきりした事を申し上げられないのですが、私はそう思っています。お答えになっているかどうか分かりませんが。よろしいでしょうか。

質問者

ありがとうございました。

司会者

他の方いらっしゃいますか。

質問者A

あの、今の高尚な質問と比べるとレベルが低くなると思うんですけれど、三田平凡寺さんと夏目漱石さんは私たちから見ると、どちらかといえば対極にあるように思います。共通のお孫さんである夏目房之介さんはそのことで今まで「得したな」と思ったこととか、「損したな」と思ったことはありましたでしょうか。損したなと思ったことは無いのかもしれませんが、夏目房之介さんは漫画コラムニストですから、平凡寺さんは絵がうまい、夏目漱石さんは文がうまい、どちらの血も受けておられますが、自分ではどちらに似ていると思っておられるかも聞かせて欲しいと思います。

夏目

まず損か得かということでいえば、多分20歳までは損だったと思います。世間が認識するのはまず漱石でありますから、漱石の孫だと言われ始めるのがだいたい10歳以降なんですね。それまでは、まわりの子どもも漱石を知りませんからね。その頃からなにか、自分が会ったこともないお祖父さんをモノサシにして自分が語られる。これは性格的にも、とても嫌だったんですね。10代20代はそれで相当鬱屈しました。漱石の孫と言われるたびにこめかみに青筋がピピピとたってですね、すぐに身構える。「なんだこのやろう」と。そんなことで、とんでもないストレスフルな青春時代を送らせていただいたのは損だったと思います。どうしたって比べますからね。比べなくてもいいじゃないですか、あんな偉い人と。でも比べるわけですよ。似てるの似てないのって、勝手なことを言ってる。知ったこっちゃないと思うんですけども、でもそれで性格形成されちゃう。

だけども30を過ぎて、自分の仕事にある程度自信をもって来ますと、だんだん平気になってくる。たまたまその頃千円札になってるんですね。で、そのあたりから取材を受けるようになって、それまで「漱石」ということで直接仕事をしたことはいっぺんもなかったんです。自分自身に禁じていたことなんですね。それをやっちゃうと、自分としては自分の実力以上のものを抱え込むわけで、いってみれば屋台のラーメン屋がものすごく立派な看板をしょってるようなもんですから、倒れちゃう。それで禁じ手にしていた。だけども30代で取材を解禁しまして、さらにエッセイなんかも書くようになる。40代の後半になって、丁度漱石が死んだのが49なんですが、そのあたりになって来ると初めて、改めて漱石が自分のなかで違う形で見えてきた。それで改めて漱石について本[『漱石の孫』実業之日本社 2006年]を書いたのが50過ぎてからです。

でそんな過程から、損か得かは分らないけれども収支が合って来たというのが僕の実感ですね。やっぱり漱石って付くと本が買っていただけるというのがあるんですね。で、それは物書きとしてはとても嬉しいことなんです。自分の書いたものに自信がなかった頃なら、漱石という名前で売れることはすごく嫌だったはずです。そういうことはやらなかったと思いますが、『漱石の孫』は自分なりに、仮に漱石を知らない人が読んでも面白いと思えたので、それが売れたのは嬉しかったですね。いわば、ようやく僕のなかのプライドと漱石という存在が釣り合うようになったんです。

じゃあ、平凡寺のほうはどうだったかと言うと、プライドが心のなかで釣り合うまでの間は、要するに僕の中でバランスをとる存在だったんですね、平凡寺という人は。つまり、漱石の孫という話が出たとたんに相手の目が変わるんですね。今となれば、別にそれは悪いことではなくて、ごく当たり前なことだていうのがわかりますが、若い頃はそれだけで身構えたんです。「漱石の孫」っていうと、まず「すごいですね」って言うんです。別にすごかないですけれども。すごいのは僕の三代前がすごいんでありまして、僕は別にただのヒトであるっていうんで、若い頃は反発してたんです。

漱石はとても優秀な、学問をして東大を出て、先生になった知識人です。その当時国家の命令を受けて留学して帰ってきて作家になった、という「偉い人」な訳です。それに対して平凡寺という人も、ある意味とても「偉い人」ですが、一般的には知名度がない。そういう意味で僕にとってはとても楽になれる人です。ある時期の僕にとって、とても救いだったですね。ああ、こういう人が母方にいるんだ。もし漱石だけが僕のお祖父さんだったらコンプレックスは強いんですけれども、半分この人の血があるというのはとても救いでした。世間的にりっぱで偉大な祖父じゃなくて、平凡寺という「変な」ほうに近づこうという傾向が若干あったと思うんです。

自分の資質のなかで、これは計量できませんからなんとも言えませんけど、本当は平凡寺系が強いのかなと思うことがありますね。なにかと言いますと、漱石という人はとても几帳面で真面目で律儀な人ですから、字を見ても分りますけれど、きちんきちんとひとつずつ積み上げていくわけです。したがって本来あの人は学者肌の人でしょうね。学者としても、ちゃんとしたことをした人だったはずですが、大学という組織が嫌いで作家になっちゃったというような人です。そういう意味では、僕にもまったく似た要素がないわけではないが、明らかに僕は地道なことが苦手です。発想の面白さにすぐ飛びつく。で、発想の面白さのほうはすぐできる。発想の面白さの強みで、漫画の分析なんかでも、直感的にパッと分ることを表現できます。でも、その後膨大な資料を集めて統計を取って、きちんきちんと積み重ねていって、ひとつひとつ積み上げていって、たとえば漱石の文学論のようにやるかと言えば、やりません。すごく苦手なんです。それで僕には研究者の道は無理だ、と大学の時によくわかった。そういう意味で僕は平凡寺のほうに近いのかなと自分では思っています。お答えになっているかどうかよく分りませんが。

司会者

 ありがとうございました。それではお時間も参りましたので以上をもちまして質問の時間を終らせていただきます。夏目先生、本日は誠にありがとうございました。

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