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夏目房之介の「で?」

彦根講演「平凡寺と「我楽他宗」」(3)

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A1 写真1 幼少の僕と平凡寺の離れ一部 

※写真データの種類が違うらしく、UPできないので、写真は当面なしです。

そろそろ僕の記憶の話はネタが切れつつあるわけです。が、僕の家には、平凡寺が作った写真絵葉書が色々残ってます。その写真をお見せしながら、もう少し続けてみます。まずはこちらをごらん頂きたいんですが。見えますか? 上にある写真は、子供の頃の僕です。長靴に入れた子犬を抱えております。右が物干しで、その後ろにある建物が平凡寺の離れで、見えているのは二階建てになった収集品の倉庫みたいな部分です。建物がくの字型なので、写真では見えない右手前方向に「いるす」のドアありました。

B2 写真2 筆談の紙に埋もれる平凡寺          写真3 同じく子どもたち(○内=母)

三田平凡寺の三田平凡寺たる所以をひとつお見せしておきたいと思います。人物が紙くずに埋もれておりますが、これがただの紙くずじゃない。彼が筆談で使った反故紙なんです。それをこんなにとっといたってことですよね。そこがおかしい。おまけに何を思ったかそこに埋まって写真を撮った。変でしょ(笑)。変人の変人たる所以であります。自分でも自覚してまして、この絵葉書の裏に自筆で、万年筆でこう書いてある。「此男ハ」つまり自分のことですね、「三十才頃迄孫悟空を崇拝して云々」と書いてあるんですね。どうも孫悟空に憧れたらしい。「馬鹿か利口かイヤ利口でハなひことハ慥であるがとにかくわけのわからぬ生物である!ごらんの如く人を喰つた面ヲかまへひと癖所か三十三癖もある癖ものであることは人より自分でよく心得ている」と。まあ、自分でも相当奇矯な人間であるという自覚はあったんですね。

紙くずに埋もれている男が平凡寺。それと自分の子どもたちなんですね。自分だけやりゃあいいだろうと思うんですけれど(笑)。大正6年の夏のことです。左端の伯父さん(長男 )は覚えております。大変絵のうまい、手先の器用な人で、面白い伯父さんでした。右から二番目の坊主頭が次男で、他に三人娘がおります。次女は非常な美人でした。美人薄命の言葉通り早く亡くなってしまいましたが。上に、卒業写真で入院中の人とかが入っているような丸いのに入っている赤ちゃん、布袋さんのような顔をしたのが僕の母ですね。なにもこんなことまでせんでも、という写真ですね。こういうのをたくさん作って、配ったかどうかは分らないんですが我楽他宗の仲間かなんかに送ったりしたんでしょうか。こういう写真はかなり僕の手元に残っていまして、面白いもんですから、時々見たりしてました。まさかこういう場面で発表する日がこようとは思わなかったですけれども。

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