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夏目房之介の「で?」

初期「ガロ」の読者感想の掘り起こし

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 コミックパーク「マンガの発見」で「ガロ」を取り上げるために初期「ガロ」を調べていて、当時の「ガロ」が読者の感想文、批評文を積極的に掘り起こそうとしているのを、あらためて発見。ここまで引用して使えるかどうかわからんので、ちょっと紹介してみる。

 64年9月創刊号からすでに佐藤忠男の「白土三平さんのマンガ」というコラムを載せたりしているが、翌95年9月号では「新人募集 第一回入選作発表」が行われ、星川てっぷ、つりたくにこなど4作品が掲載され、選評風紹介文の最後にこう書かれている。

 〈言うまでもなく、誌上に発表される作品の評価は、読者によってなされるべきものです。そこで、10月号には、新人の入選作品に対する読者の批評を小特集したいと思います。左記の要領で、熱意と愛情のある批評をどしどしお寄せ下さい。

一、入選作品に対する批評文

一、四百字詰原稿用紙二枚以内[]

一、掲載の分には記念品進呈〉

 入選作の批評は同年12月号に7名分3ページが掲載された。感想はさまざまで、まだ批評感想文の形が定まっておらず、スタイルがないような印象がある。全体に、どこか挑戦的な気分の出た文章が多い。〈私の様な漫画を研究している者〉と書いている人、〈私もマンガを書いている〉と書く人などがいて、当時のガロを読み、編集部の呼びかけに積極的に反応参加する人々が「マンガ青年」といっていいスタイルを持っていることを感じさせる。編集部でよほど直していないかぎり、おそらく当時としては高学歴の人々だったのではと思える。

 これに先立って、なぜか11月号には「読者の感想文特集」という、入選作とは関係のない感想文6名分4ページが掲載された。あるいは、先の入選作感想文募集に対して、そうではない感想文が届いてしまった結果なのかもしれない。

最初に〈貴重な提言 京都 竹本信弘(学生)〉とある感想が載っている。彼は白土三平の作品を評価し、こう書いている。

〈私は、京大経済学部の大学院に在籍し、マルクスの革命思想を研究し、公式的な石頭的公認マルクス主義から、新たな生々しい思想としてのマルクス主義の再生を日夜祈りながら勉強しております。ついては、白土三平氏の漫画は、私の問題意識に極めて鋭く迫るように思われ、全く、全神経を緊張させて読ませていただいております。〉

竹本信弘は、のち京大パルチザンを構想し、赤衛軍事件で指名手配され潜行した滝田修であり、60年代後半期には『カムイ伝』に失望した批判の感想を投稿していたと記憶する。著書も昔読んだが、もう捨てちゃってるだろうなぁ、多分。

他にも〈「影丸伝」の中の主なモチーフは、弁証法的唯物史観とも思える階級斗争史観〉(東京の学生)とあったり、〈白土三平氏の作品には確固たる思想性があり、唯物史観的な、弁証法的な転開[ママ]がみられます。〉〈階級斗争と封建主義の矛盾をテーマにした「カムイ伝」は、どの年令層を対象にしているのでしょうか。〉(神戸の学生)などの言葉が見られる。さらに〈白土三平の仕事の比類なき卓越性を承認するとともに、それが平和ボケし、あるいは現実の階級斗争の課題とは無縁のところで権威と教条にしがみついて怒号している日本の左翼に対するきびしい断罪である〉(大阪の学生)との(いささか早飲み込みな)批評も見られる。

初期の白土マンガ支持者の感想は、少なくともここに載ったかぎりでは、かなりはっきりと新左翼系学生(65年段階で新左翼といえば、まだほとんどが大学生だったろう)の反応だった。入選作への感想は、必ずしもそういう傾向ばかりではないが、「左翼」系「革新」系が多いのは間違いない。白土『カムイ伝』は、『忍者武芸帳』で「左翼」系大学生の支持を受けたため、当初から政治イデオロギー的に読むことが当然のように思われていたのだと思う。もともと貸本読者のような「デモにも行けない」若年労働者を対象に考えていたという白土本人にとっては想定読者ではなかったようだが、実際は「ガロ」の支持読者はほとんど中高生、大学生ではなかったか。こういう「読み」の傾向が、かえって知識人による白土マンガ評価を脱政治化させていったのだと思う。その影響を僕なども受けている。多分、村上知彦や四方田犬彦も。

もちろん、65年当時まったく非政治的な中学生だった僕は、多分ここで何が書かれているか、読んでもよくわからなかったろう。ただ、あまりいい印象は持たなかったと思う。図式的な政治主義でマンガを読む、ということには、直観的に凄く反撥したような気がする。マンガが好きであればあるほど、十代の頃の僕は純粋にマンガが楽しみたかっただろうし、頭でっかちな理解には素朴に反感を持ったと考えるほうが、実感としても自然である。

『カムイ伝』も、好きだった水木の『こどもの国』も、僕はついに好きになれなかった。その理由を図式的な登場人物の扱い方にあると意識したのは、多分もう少しあとかもしれないが、好意的な読み方はできなかった。同様に、ここで挙げたような感想批評には好意的ではなかったろう。ただ「自分の知らない世界の言葉」という印象はあっただろうから、「何か凄いことをいってるんだろうか」というような、ある種の恐れは感じたかもしれない。そこに「マンガも大学生らしき人が、こんな言葉で語る時代になったんだ」という「誇らしさ」がなかったかといえば、おそらくあったろうが。

「ガロ」がなぜ、創刊翌年あたりから積極的に読者の発言を誘ったのかは、まだよくわからない。高野慎三が編集部に入るのは『ガロ曼荼羅』92pによると66年11月号から、権藤晋も同じ頃(権藤『「ねじ式」夜話』によると67年から)と記憶するので、65年当時に長井さん以外に誰が編集していたか、これもわからない。いずれにせよ、若い読者層を発言者として組織しようとした最初期の動きだったことは間違いないだろう(初期「ボーイズライフ」が、ここまで積極的に感想批評を誌面に載せた記憶はない)。

「ガロ」読者の掘り起こしが、どんな意図で行われたかわからないので、はたしてこうした言葉たちがその意図に反したのかどうかも、よくわからない。感性的には貸本時代の読者欄のような「身近さ」を前提にしていたのかもしれないが、編集部の書きぶりを見ると、それほど素朴ではなく、ある程度大衆史観的なバックボーンがあっての呼びかけであるようにも思える。

いずれにせよ、のち67年以降に「COM」によって掘り起こされ、組織されることとなる読者像とは、結果的にせよかなり違ったとはいえるだろう。「COM」時代には僕も高校~大学生で、僕自身は世代的には「COM」読者の反応のしかたに近い層だったろうと思う。そして、それは明らかに都市の「マンガ青年」たち、「COM」からいわせれば「マンガエリート」(笑)だったのだと思われる。

高野慎三「初期ガロを支えた作家たち」(『ガロ曼荼羅』 TBSブリタニカ 91年)によると、「ガロ」の作家たちはいずれも〈寡黙〉で〈安易に肩を組むということをしなかった〉し、そこにはニヒリスティックな雰囲気があって〈若い懐疑派が群がるのは必然〉だったという。

〈彼ら[つげや新人たち]は、「俺たち関係ないよ、どうなったっていい!」といういい方をくり返していた。〉(同書 94p)

そう書いたあと、つげ特集号を読みふけっていた反戦運動家の自死や、安田講堂に出入りした同僚、内ゲバで逮捕されたアルバイトの大学生に触れ、高野はこう書く。

〈『ガロ』の返品の山の片隅には、赤や白や緑や黒のヘルメットが二〇、三〇と積まれていた〉(同上)

これは60年代後半期の風景だろうが、そんな雰囲気の中で「ガロ」やその作品が語られる時代だったのである。

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