オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

彦根講演「平凡寺と「我楽他宗」(1)

»

昨年10月に彦根で行った「彦根まちなか博物館」セミナー講演のおこしを送っていただきました。許可をいただいて、僕が手直しした分を少しずつブログで紹介しようと思います。かなり長いものなので、とりあえず、その(1)・・・・。

彦根まちなか博物館セミナー講演録

日時:20071020日(土) 14:0016:00

場所:大学サテライトプラザ彦根 会議室(JR彦根駅前アル・プラザ彦根6F

演題:「三田平凡寺と我楽他宗」

講師:漫画コラムニスト 夏目房之介氏

記録者・文責:藤野滋  改稿 夏目房之介

三田平凡寺について

こんにちは、夏目と申します。僕の専門は漫画ですので漫画の講演や講義は何度もやっております。最近増えたのが祖父夏目漱石についての講演で、最近まであんまり興味なかったんですけど、本を書いた手前上、宣伝もあって講演を引き受けるようになって、こちらも慣れております。面白いことに漫画のお客様と漱石のお客様はガラッと変わりまして、だいたい漱石のお客様は僕より年上の方が多い。漫画のお客様はだいたい若い方が多いと・・・・・、微妙なのは今日なんですね(笑)。

どう判断していいものやら、だいたい三田平凡寺と我楽他宗で来られる方がこんなにいるとは思わなかったんです。まず、三田平凡寺と我楽他宗というものに興味があってここに来られたという方どのくらいいらっしゃるでしょう。お手を上げていただきたいんですけれど。(会場内チラホラと手が上がる)かなり濃い方ですね(笑)。普通一般にはあまり知られていない名前だと思うんですね。

僕がまだちっちゃい頃、小学生ぐらいの時までは平凡寺と一緒に住んでましたから、ただの“オジイサン”でした。彼がタダモンじゃないと分ったのはもう少し後、物心ついて以降です。どんな風にタダモンじゃないのかが分ったのは、さらにずっと後です。母親や伯父、伯母から話を聞きました。限られたコミュニティでは大変な名前であると分ったのはほんとに最近です。僕の母が祖父平凡寺の面倒をみて、同じ地所に住んでいましたから、いろんなものが若干残っていました。収集品だとか資料だとか。

とはいえ、かたっぽに日本で一番有名と言っていいくらいの、お札になった偉人がいるわけですから、そっちの取材はしょっちゅう来る。教科書に載ってるくらいですから、子どもの頃からこの人はすごい、と思うわけですね。ただ、僕会ったことがない。だから全然親しみはないんです。それと比べると平凡寺のほうがはるかに親しみはある。でも、当たり前ですが無名です。ところがたまに、たとえば誰か狂歌の好きな人が「三田平凡寺ですか。それは大変な人ですよ」と言う。それで「ああ、そうなのか」という感じになる。

母がだいぶ年取った時に、平凡寺の持っていた猫の玩具があって、河村目呂二さんが作ったものなんです。古い木箱に入っていて、おまけに平凡寺が表に何やら筆で書いている。あの人何にでも書いちゃう。平凡寺がいつ誰にもらったとかいうことをダーッと書いちゃうんです。あるとき、うちにあっても散逸してしまうだけだから「何でも鑑定団」というテレビ番組で見てもらって売ってくれって母に言われて、僕が番組に持ってったんです。そうしたら、何が驚いたかって、あそこに並んでいる審査員が平凡寺を知っているんですよね。平凡寺は大変な人なんだぞっていう目で僕を見るんですね。しかも、平凡寺が箱の上に何か書いている、もっと高いぞっていう訳です。河村目呂二さんという人は、その世界では有名だそうで、その人の作品の入った箱に他人がなんか書いたら、ふつうは値が下がるのに、高いらしい。これは大変な人なんだなと、素人としては驚くしかない。どうもそういうことらしい。

相当面白い人だということは以前から薄々知っていて、 興味を持って若干読んでみたりもした。中野翠さん、荒俣宏さん、山口昌男さんが書かれていたり、そういうのを読んで若干知識は増えたんですが、とはいえ趣味の世界にも狂歌の世界にもまるで疎い。そういう人間がここに立って平凡寺についてしゃべるというんですから乱暴な話です。

平凡寺と僕

僕の講演はだいたい言い訳から始まります。すなわち、僕はそんなに平凡寺に詳しいわけじゃない。今お手を上げられた方のほうがひょっとしたら詳しいかも知れない。そういうことを前提にしてお話申し上げなきゃいけない。ただ、僕の強みはとにかく生前に会っているということですね。

平凡寺がどういう人であったかということを、一応申し上げます。明治9年生まれで、地主でした。東京の確か世田谷の方に先祖がいて、僕の曽祖父、平凡寺の親が山師、材木関係をやって成功した。東京の泉岳寺あたりに三田源という材木商を営んで、手広くやっていたらしい。平凡寺が跡を継ぐはずだったんですが、若い頃に病気で耳が聞こえなくなってしまった。商売に支障をきたすというので番頭に材木商を譲って、本人は泉岳寺の参道周辺、降りきって京浜国道を渡ったあたりの地所を持って、土地を貸して地主として生活をしていた。うちの母は地主の娘として育った。泉岳寺からもうちょっと京浜国道を銀座寄りに行った所に、歩いて数分ですが大木戸という遺跡が残っている。江戸に入る木戸がかたっぽだけ残っている、このあたりにもう一箇所小さい地所があった。そこに母親が家を立て平凡寺を引き取った。僕が生まれ育ったのはそこなんですね。漱石の家がある早稲田ではなく、母方の地所で生まれ育ったんです。いいかえれば、うちの父親はそこへころがりこんだようなもので、あまり働かない人だった。母が一生懸命働いて僕や姉は育った。そのせいで、今でも僕は女性は偉い、男はだらしがないという風に思っているところがありますね。その家で平凡寺が亡くなったのが1960(昭和35)年。僕が‘50年生れですから丁度10歳くらいまで一緒にいたわけです。

僕が一緒にいた家というのが、また変だった。生まれてからずっとそこで育ってますから、おかしいとは思いませんでしたけど、だんだん大人になってくると気づく。どうも、なんか妙な家だと。なぜ妙かといえば、平凡寺が設計した家だったからです。母屋があって庭が左右にある。その母屋のど真ん中に主人の、つまり父の寝る三畳か二畳くらいの部屋がある。平凡寺が家の主人は地所の真ん中に寝るべきだと言ったらしい。今はそんなこと聴いたことないですけれども。なぜか父の頭方向に風呂がある。しかも風呂は母屋と離れていなければならないらしく、ほんの一跨ぎで渡れるけれども別棟になっている。

また、母屋と庭を挟んだ向こうに、くの字型の、二階家の離れがある。二階家にしてはやけに低い。ちゃんとした二階ではなくて屋根裏みたいになっている。そこに収集品がザーッとあった。離れの一階の所には平凡寺が住んでいて、子どもの頃は遊びに行ったりしていた。ただあんまりはっきりした記憶はないですね。僕が物心ついた頃には寝たきりに近い状態になっていた。なんか不思議な老人がそこにいるという感じでした。ただ後になってやっぱり変だと思うのは、その離れにはいつも「いるす」という表札がかかっていた。子どもの時分は意味がわからなかったけど、後になって普通は「いるす」って表札はかけないだろうと分るわけですね。その辺りからあの人はどうも普通じゃなかったということになるわけです。

平凡寺は地主業をやりつつも、あまり商売には向いていなかったと思います。何しろ新しもん好きなので写真屋をやったけれども、うるさいことばかり言うので客が寄り付かない。暇でしょうがないんで猫を捕まえてきて三味線と一緒に写真撮った。昔の話で、マグネシウム焚くわけで、猫が暴れて引っ掻き傷だらけになる。しょうがないんで猫を縛り付けて撮ったという写真が今も残っています。三味線の横に子猫がいる。大体、そういう人は商売には向いてません。

若い頃は、禅とかに興味を持ち、いろいろあちこち修行して歩いたという話を聞いた覚えがあります。明治の終わり頃に平凡寺を名乗り、大正に入ると趣味の集団、いわゆる「我楽他宗」を作るわけです。はじめ何人かで作って、次第に大きくなった。丁度、時代的に柳田国男の民俗学とか、柳宗悦の民芸運動とか、同じ時期だと思うんですが、正統的なもの、アカデミックなものとして注目されない、因習的な文化というものに目が向けられた時代です。そのなかで“ガラクタ”、普段は目にも留めないようなものを集めて楽しむという、そういう集団を作った。それが全国展開をして、しまいには大陸にまで拡がったりなんかして、しまいには大変な数になったようですね。

奇人変人ということでも有名な人でした。戦前から雑誌で奇人変人特集というのがあると、そのたびに平凡寺がかならず出てくるという人だったらしい。いくつか雑誌の取材記事を見たことあります。今だったら絶対テレビが取材にきてるでしょうね。受けたかどうかは知りませんけど。

平凡寺は、耳が聞こえなかった。だからほとんどすべてのコミュニケーションは筆談なんですよ。それでいて何百人も抱える我楽他宗の頭目でしょ? そこが不思議なんですよ。なんかあったんですかね。みんなを束ねるリーダーのオーラだかなんだか知りませんがそういう求心力を持っていたんでしょうか。我楽他宗は戦争の前まで続いたようですね。

僕の母は平凡寺の末娘になります。聞いた話ですが、戦争の時に空襲を避けて疎開するんだけど、平凡寺の収集品全部は持って行けない。それで、かなりのものを泉岳寺の地所に埋めていったらしい。で、疎開から帰って来たらなかったという。誰が持って行ったか分らない。僕は別に今となってはどうでもいいんですが、とにかくなくなったらしいです。若干残ったものが、先ほどの育った地所の離れにあったということでしょう。それは見たことがあります。たとえば、「いるす」と書かれたドアを開けるとたたきがあって、狭い上がり所にまず熊の敷物があります。上からハリセンボンの提灯が下がっている。瓢箪も下がっている。いろんなもんが下がっています。なんだかいろんなもんがありましたね。

一番変わってたのは、昼間っから申し訳ないんですが、大きなほうの排泄物、俗に言う“うんこ”です。「うんこのとぐろの金粉まぶし」が置いてありました。今はないですけれども。たしか伯母に聞いた話ですが、平凡寺は、うんこなんてものは無駄なものなので、あんなものは一週間に一回でいい、といって、じっさい一週間に一回しかしなかったと言うんですよ。よくそんなことができるなと思いますが。ヨガでもやっていたんですかね。一週間に一回やる。当然、大きい。

それで今日はいいのが出るかなと思うと、庭に出る。庭に板敷いてその上でなさるらしい。その形がいいと石膏にとる(笑)。石膏にとった型のなかにまた石膏を入れて、外側を割って、うんこの石膏型を作る。その上に金粉をまぶす。何のためだか知りませんよ。何せ奇人ですから。それが離れに置いてあったように記憶してます。迷惑なのは、石膏のなかのうんこを掻き出すのが誰かと言うと、奥さんだったそうです。奥さん、つまり僕の祖母は僕が生まれた時にはもう亡くなっていました。僕の母はずっと働いていたので、うちにはすっとお手伝いさんがいた。お祖母さんが亡くなってからはそのお手伝いさんが掻き出していたそうで、とっても嫌だったと言ってました。あたりまえですよね。人のもんですからね。自分のだってあんまり気分よかあないでしょう。今はどこいったんだか、ないですね、金粉うんこ。また子供心に非常に印象的だったのは、なんか模型がありました。小さな風呂桶に裸の女の人が入っていた。幼少の僕は非常に興味を持って見ていたわけです。(つづく)

Comment(0)