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夏目房之介の「で?」

少年ジャンプ編集長の記事(日経

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日経3月5日付文化欄に「少年ジャンプも不惑の年」茨木政彦という署名記事があり、現編集長が書いている。内容は時分がマンガ編集者になる経緯の回想で、宮下あきら、ゆでたまご、最初に新人で担当した『シェイプアップ乱』の徳弘正也、森田まさのりなどに触れている。
1982年入社で〈漫画編集という仕事を学んだのは、先輩からではなく漫画家の方々とのおつきあいを通じてだった。〉とある。宮下の担当を引き継いだときも〈先輩は一日付き添ってくれただけで「次から頼むよ」。そんな「担当編集者に任せる」という編集部の伝統は今も健在だ。〉と書いている。

率直な現場の声というべきで、編集者の主観というのは大抵こんな風だと思う。宮下が比較的めんどう見のいい作家で、任せやすいとかいうこともあった可能性はあるが、多分ジャンプ編集部ではあまり編集者間でノウハウを研鑽したりはしないのだろうという気はする。編集者→マンガ家(新人)→(中堅化)→編集者(新人)というノウハウの自然発生的移動システムが想定される。こういうシステムは抽象化して抽出するのは難しいだろうが、できないことではないと思う。ただ現場的な身体化した「知」からは違和感や反撥が当然出るだろう。
茨木は、こんな書き方をしている。
〈編集者は漫画家と一緒に作品を作る「個人商店」のようなもので、ルールや方法論はない。〉
マンガ編集・マンガ制作の現場は、茨木のいうように、まことに工房的な家内制手工業みたいな緊密さの中にある。そんな手工業的工房が、高度化した産業レベルに直接繋がって、二百万部を越えるマンガ雑誌が生産され、TVやキャラクター・ビジネスに接続されるという日本マンガ市場の特異な態様は、まさに編集現場では「個人商店」の主観となるのだろう。
したがって、手ワザ的な世界や価値観への尊敬と尊重、その実感がそのまま「人気作品の制作」の手ごたえに繋がっていく。だからマンガ編集者にとって、今の出版不況の突破口は「いい作品を作ること」にしかならなかったりするのだろう。現場的な「知」の範囲だけでは、どうしてもそうなりがちなのだ。ただ僕自身、こうした価値観はわからないではないし、親近感もある。現場的には有効な価値観なのだ。茨木が書く作家への感情の重視は、そうした世界観の反映と思える。
〈好き勝手やっているように見える編集部員だが、それぞれが担当する漫画家の先生を誰よりも尊敬し、信じ、励まし、ときに言葉をたたかわせながらも、面白い漫画を作るために情熱を傾けている。当然編集部内にはいつも競争があり、編集者は今も昔もみなライバルだ。〉
作家は自分の「身内」で、同僚編集者はむしろ「ライバル」という意識は、部内競争の激しいだろうジャンプでとくに見られる傾向かもしれない。が、こうした共同体的仲間意識による現場は、一般の仕事現場ではむしろ前近代的な実態のようにして意識の下方に押さえられているものではないかと思う。そして、このへんの勘所がわからないでマンガ出版に手を出す出版社が大抵失敗してきた理由にもなってきたのではないかとも思える。
そうした身体感覚的な場所では、ルールや方法論という意識はむしろ邪魔になる場合が多いだろう。抽象化して方法化する余裕も、過酷な現場では作りにくいし、間に合わない。
問題は、そうした現状でこのままマンガを支えた雑誌メディアが衰退変質していった場合、現場ごとマンガ編集の特性が失われる可能性だろう。こうした問題は、あるいはアニメの現場でもありうるのではないかと思う。

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