オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

フランスで武術を教える日本人

»

たまたま山陽新聞07年12月24日付けを入手。ぱらぱら眺めてたら「くらし」欄に「メールでこんにちは! 異国の空から」という連載があり、そこに武部磨美さんという人がフランスで日本武道を教える人たちの情報を書いていた。以前、フランスで空手を教えた人の自伝的な本を読んで、凄く面白かったのだが、似たことが書いてあった。たとえばフランスで20年以上空手を教えている50代半ばの日本人師範の話。

〈日本人の弟子は、これをしろと一言言うと、黙々とやります。が、フランス人弟子の場合は、なぜするのか、どんな意義があるのか、どうすればもっと効果的にできるかなどと、熱心に質問してきます。[略]フランス人が納得できるように教えるには、自分もきちんと分かっていなければならないので、今まであまり考えずにやってきたことを考え直すことができました。〉

これ、よくわかる。多分、日本人の中では僕はかなり、ここでいうフランス人的な教わり方をするほうだろうけど、疑問を次々言葉にする能力というのは、それなりに相互に理解の言語を組み立てることができるし、一度言語化すればそれは少なくとも「残る」。のちに、同じ道を辿ろうとする人や、似た問題を考える人に素材を与えることもできる。馬貴派やってても、マンガを考えていても、そこは同じだ。とくにマンガ表現のうちわけを言語化する作業は、ほとんど身体的な習いを無意識の中から掘り起こし、形を与える作業なので、似ているかな。
でも、もちろんそこには「問題」があって、それって結局、言語というものの持つ限界、理解ということの領域(あるいは境界領域)の問題に関わる。それが全部だと思って言語化しちゃうと、気がつくと言語化の形式に足をとられて、ズレていってしまう。言語中心の思考の限界は、多分身体的な伝承とって場面にあって如実に現れるんだと思う。

記事は、その点も触れている。
その師範は、「ただし」と前置きして続ける。

〈日本では、武道に限らず、『習うより覚えろ』で、師や先輩のすることを観察しまねながら、自分で試行錯誤し、暗黙のうちに必要なことを悟っていく。これも非常に大切。ですから最近は、『私は全部は答えませんから、まず自分で考えてみなさい』と言うようにしています〉

「教える」という文化は、多分欧米と日本で、あるいは日本と中国でも相当違う。ただ、それを言語化する文脈は、たいていはその国の内で通る形なので、まったく文脈の違う文化のあいだでは、相当しつこく疑問、質問、試行錯誤を言語化しながらつきあわせてゆく必要がある。この師範は、20年以上の経験で、とりあえず「答え方」を「教える」ことにしたんだと思う。
ただ、経験的現場的にやるのではなく、ある程度客観的にやろうとすると、その「教え」がどんな社会的な場所で、どんな権威や権力で行使され、どんな文脈で受け入れられ、効力を発揮してゆくのかという分析が必要になる。武術だったら、その国や地域で武術がどんな歴史的イメージをもち、どんな階層によって、どんな言葉で伝承され、どの程度閉じられ(密教化、神聖化され)、どのくらい開いているか(公開され、教育課程化されているか)、あるいはそうした一見「伝統的」な「教え」が、どんな社会(伝統社会と大衆消費社会では、そもそも「伝統」の意味も扱われ方も違う)で流通しているかが、根本的な問題になるはずだ。
本当は、こうした問題について、利用できるほど簡単に形式化した理論とかがあると楽なのかもしれないけど、どうなんだろう。結局は現場で解決してゆくべき問題でもあるし、「教える」「教わる」者が共通言語を開発してゆくしかないんだと思うけどね。僕と馬貴派の場合、八戒さんの中国語とつたない英語しか李先生と共通言語がないので、そこで組み上げてゆくのは大変ではあるなぁ。そうした異文化間の問題に自覚的な人って、中国武術系の人にはあまりいないのかもしれないし。基本的に強い憧憬と神聖化のオーラが動機になってるからね。
ただ、憧憬が動機になっているからこそ、異文化の齟齬を乗り越え、それに興味をもつこともできるので、そのこと自体は問題ではない。どういうしくみになっているかを自覚できるかどうか、そのことでうまくコミュニケーションできるかどうかが問題なんだろうな。本質的にはマンガの世界化も同じ問題だし、大学で教えるときにも同じだ。

この記事では、初対面でもはっきり疑問を言葉にし、主張するフランス人は、そうやって〈言葉というコミュニケーションの道具をうまく使える人間が[略]評価される〉文化の中にいるし、そのように教育される。反面〈「(他人の心を)察する」訓練に欠けているきらいがある〉と書かれている。本当にそうかどうかは、僕には判断できないけど。
また、日本人の言語を越えたコミュニケーション、「思いやり」「気くばり」を評価する文化は、〈意思疎通がうまくいっているときは良いが、相手と意見が衝突したときには、感情的になり、冷静で論理的な話し合いができない傾向がある〉という。
経験的には、この比較と比喩は、とてもよくわかる。多分、執筆者もフランスで経験したことなのだろう。ある程度はフランス以外でも異文化衝突の場面では共通のことじゃないかな。

最後に執筆者が〈多文化の交流が進めば、互いが互いの長所を取り入れ、[略]私も、フランス人の冗舌、詭弁、愚問攻撃にたまったストレスを感情的に爆発させることもなくなるだろうに。〉としめくくっているのが、おかしかった。色んな意味で、よくわかる(笑)。

Comment(2)