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夏目房之介の「で?」

TV『のだめ〉補足、竹中直人のシュトレーゼマン

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学習院講演のあと、演劇専攻の佐伯教授が少し話された中で、僕のTV『のだめ』についての話を引き取り「竹中のあからさまなガイジンの演技は、今まで誰もやらなかったことで、彼の仕事としてもいちばいイイ」と語られた。
演劇論としてどうかは僕にはわからないが、同じように感じていた人はいたんだなと思った。この点については、たしか他でも少し書いたが、あらためて補足しておきたい。
高い鼻まで作ってヅラかぶって「○○デェスカー?」などとワザとらしくやりきる竹中のシュトレーゼマンが出てきたとき、僕は大笑いしながら、これでこのドラマは「何でもOK」になったなと思った。あそこまでやってしまうと、ドラマの中のリアリティの水準、演技や架空性のチューニング・レベルは、もう目一杯敷居が下がってしまう。あとは何やっても「範囲内」な感じになるのだ。
その上で、マンガ原作のギャグそのままを映像化するような無茶ブリな演出を強行し、それと同時に、意外なほどしっかりとクラシック演奏の場面を徹底した。最後のブラームス1番なんて曲を、もともとコメディで逃げてもいいところを、あそこまでしつこくキチンと再現して聴かせたのは、マンガもクラシックもバカにしていないスタッフの愛情を感じる場面だった。そこまでやったからこそクラシックCDの売れ行きが、このドラマによって上がったのだろう。昔なら信じられない事態=マンガやTVを「バカにしない」態度の共有が、アニメ・マンガがこの国で基礎教養的な存在になっていることを意味しているだろうと思う。
そういう意味で、今やクラシック界からマンガ原作のコメディTVドラマに積極的に協力してもらえる時代になり、音大生までファンをもったのは、あきらかにこの国のクラシック=ハイアートと、マンガ、TV=マスカルチャーの互いの敷居が下がり、「開いて」しまったことを意味する。本当は、そのことに「誰も驚いていない」ように見えることにこそ、驚くべきだろうというのが僕の観点なのだった。
これは、この国の文化状況のジャンル間流動性みたいなものを示しているんじゃないだろうか、というようなことを示唆したかったのだった。

つまり、マンガ・アニメを含む大衆文化をとらえ評価する知的な枠組の問題なんだっていいたかったんだね。

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