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夏目房之介の「で?」

講談社「本」8月号の特別対談で

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大澤真幸(まさち)・東浩紀「ナショナリズムとゲーム的リアリズム」というのがあって、ひじょうにスリリングで面白かった。
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社新書)は面白く読んだのだけど、僕にはその「面白さ」をうまくすくいとって言語化する力がないな、と思わせる本だった。でも、たしかにそこには「何か、現在、とても重要な課題」があって、自分もそれを感じている、と思わせるものがあった。
その「何か」に触れるものを、この対談で語られた話題に感じたんである。
大澤は、東の「大きな物語の不在」とは「物語の過剰」なのだとする点について、

〈多文化主義こそ物語の過剰、物語る権利の擁護だから〉だと、自著『ナショナリズムの由来』(講談社)で書いた〈現代的ナショナリズムjの過剰性〉と対応させている。東も〈多様な物語を選べるはずだけれども、結局「この」物語を選んでしまっているという偶有性〉を、ライトノベルや美少女ゲームの作品論で述べたとし、大澤のナショナリズムの偶有性と倫理についての問題意識に対応させている。
また、東のいう「プレイヤーの視点」、ゲーム的想像力のひとつの要点には、〈まさにひとつの「これ」を選んだのだけれども、他に対する想像力を残すんだ〉という問題意識があるのだろうと、大澤は指摘する。ナショナリズムも、ある地域共同体に生まれてしまったという偶有性だから、日本なら日本を「選んで」しまったことになるが、同時に他の立場を想像する余地を残し、そこに倫理はあるんじゃないか、という議論のように見える。それは、非常に重要な「現在的問題」だ。
東は、大澤の指摘を受けて、「リベラル」の限界は、みんなリベラルにならないといけないと思い込む普遍主義であり、それは多文化主義と同様の隘路だという。そして、その問題は〈たぶん身体の問題と関係している〉と語る。

東〈身体にはある種の両義性というか、たとえば利己的な人間であればあるほどある種の利他性を持っているというような、矛盾した性質がある。そういうことを人間は体感できていて、実際そういうふうにコミュニケーションをとっているんだけど、言説レベルで普遍性を構想しようとすると、その両義性を捨象してしまうわけですね。そして、その捨象した可能性が後で再来する。再来したときには、変なカルトとかナショナリズムみたいになって戻ってくる。〉

大澤〈身体というのは、閉じているようで開かれている。〉(「本」07年8月号 8~9p)

こんなふうに展開されると、ものすごく僕にもわかり、そして自分の中にも(うまく言語化できないが)同じ問題意識が強くあるのがわかる。残念ながら東の『ゲーム的』を読んだとき、僕はここまで読む力はなかったが、でも何か感じてはいたんだろうと思う。身体という言葉でいわれようとする領域の両義性と、倫理の関係は、どこかでとても重要だなと感じているのだ。

もちろん、ゲームやラノベの話と、近代社会とナショナリズムの問題なので、あるレベルでの対応であって、そのまんま同じ問題というわけにはいかないだろう。また、ナショナリズムが本当に近代の資本主義の生んだ幻想であって、その条件だけで成り立っているのかどうかも議論は残るかもしれない。
〈ナショナリズムが資本主義のある種の段階的な発展と結びついている〉かどうかという東の問いに、大澤は〈一対一対応しているわけではない〉し、歴史的には百五十年ぐらいしかないけど〈だからといってそこから自由になれるわけではない〉と応じている。
このへんも、とても重要で深い問題で、興味深い。
もっとも、大澤の『ナショナリズムの由来』は、2000枚、5千円の電話帳並みの本で、書店で見て迷ったけど、結局買ってないんだけどね。

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