小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか アメリカンコミックスの変貌』NTT出版
伊藤剛『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表現論へ』、秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』、永山薫『エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』など、マンガ論にあらたな地平があらわれ始めている。
様々な観点から、その「地平」を切り取ることができるだろうが、大雑把にいってそれらのマンガ論の狙いの一つは「これまで無意識にナイことにされてきた問題を示すことで、これからのマンガの捉え方を呈示すること」だといえる。
小田切の『戦争・・・・』もまた、
そのひとつだ。永山をのぞく著者たちは、僕や僕の前後の世代の「マスコミに登場するマンガ論者・批評家・その周辺」の言説を読み、育ってきた世代だといっていい。したがって、これらの動きはある意味では必然で、先行する言説のもつ「無意識な抑圧」や矛盾、陥穽を突くものとなる。
もちろん、その点だけでこれらの本を評価なり批評してしまってはいけない。なぜなら、これらの本はそれぞれに自分のいる場所で、まずはその場所固有の課題と格闘すべく書かれているからだ。表現論、マンガと映画、エロマンガ、アメコミなど、その固有な課題における問題の提示として、まず読まれなければならない。
その上で、それぞれの領域の課題の「考え方」をさぐることが、必然的に先行するマンガ言説の枠組を問うことになってしまう。そういう方法的な問題の捉え方になっている、という順序で考えるのが妥当だろう。そして、これらの本の共通点はそうした方法的な意識にある。
小田切は、自分の場所としてのアメコミを通して、今必要とされる複数の困難な課題を明晰に意識した上で、それぞれを慎重に区分けし、答えようとしている。それは、文体のクールさからは想像できないほどの力技だといっていいだろう。それが三部構成に反映されている。乱暴にまとめると第一部がアメコミとは何か、第二部が「9・11」とアメコミ、第三部が日米比較による「戦争(政治)とマンガ」の問題。
いや、まず最初にこの本の「面白さ」について語るべきだろう。
この本が書かれ、出版されることを、僕はかなり前から切望してきた。小田切からそのモチーフを聞き、短いエッセイを読み、むちゃくちゃ読みたかった。それは「9・11によってアメコミはいかに変貌したか」という話題だったのだ。いくつかの編集者にじっさい話をしたこともある。が、アメコミという話題は、それだけで一般的な人気のないジャンルと見なされ、編集者自身が僕と同じように面白がっても、結局は企画として通らないという、ありがちな結果になっていた。
さて、そこでこの本の第一部だ。
アメコミ、と日本で思われているものは、じっさいどんなものかを歴史的に検証し、今までの通念が(僕の書いたものも含め)いかにズレ、誤解され、間違っているかを指摘し、まずはそれによって「アメコミ基礎教養」を読者に与える。
もちろん、これだけで大変なことである。たんなる紹介ではなく、どんなしくみになっているか、どんなふうに考えるべきかを含む、日本人の知らない事実の呈示になっている。そこで、日本のマンガ言説がいかにそのへんいい加減であるかがわかってゆく。
〈一般に日本の読者にとって「マンガ」というメディアは国内のみで完結した文化として認識されており、海外からの影響関係は実感されえないものになっている。要するに海外のマンガ、コミックスの存在は日本の読者にとって無意識に「関係ないこと」、「知らなくていいこと」と判断されてしまっているのである。〉(同書 12p)
マンガが、近代以降にこの国に生じたメディア文化としては例外的に「海外に起源やモノサシをもたない」ものだったことは、僕も指摘したことがあるが、そのことによってマンガを語る言葉がドメスティックな閉じ方をしてしまう。それが「無意識」の抑圧や制度になっているという観点がここでは重要だろう。
が、アメコミの歴史と構造は「9・11」のことなどすっかり忘れてしまうほど興味深くて面白い。とくに若者文化、カウンターカルチャー、自己表現としてのアメコミの生成は、日本での同様の歴史との比較をしてみたくてウズウズする。もっといえば、ここにフランスなどの同様の歴史をさらに比較対象としてもってくれば、ひじょうにスリリングな議論ができるんじゃないかと思う。
ひとつだけ、スリリングな観点を紹介すると〈アメリカでの[ベトナム]反戦が日本における「敗戦」的な価値観の転換、つまり[戦後の社会浄化的運動下でのコミックスコードなど]「国家総動員」的な社会的抑圧からの解放としてあった〉(同書83p)のではないか、という仮説。これはちょっと目ウロコな新鮮さである。
以上が第一部「アメリカンコミックス」で、それを基礎にいよいよ第二部「9・11」になる。つまり、アメコミを通して「9・11」を語るためには、まずアメコミの基礎知識を与えなければならず、しかもそうすることで日米比較の枠組をマンガ論に与えることができるという戦略にもとづいて本書は重層的に書かれているのだ。
9・11の衝撃で〈「空想の否定」や「表現への幻滅」をさらけ出して〉(同書114p)しまった、まるで〈転向〉のように見えるアーティストたちのあまりにナィーブな反応や変化が描かれ、それへのとまどいから次第に自分の(日本という場所での)問題意識に引き込んでゆく過程は、彼がいかにこの問題をじっくりと考え続けてきたかを思わせる。
第二部については、やはり多くの読者が前知識なしに読んでほしい気がする。僕もアメコミは詳しいわけではないし、ただ「面白いから読め」とだけいっておきたい気がする。
ひとつだけ書くと、ここで問題として出てくるのは「社会とマンガのかかわり」という、日本の戦後マンガと僕の世代のマンガ論が様々な理由で透明なものとみなしてきたテーマである(ナゼそうなったか、あるいはそうすべきだと思ったかを、僕も語らなければいけないのだろう)。いいかえればイデオロギーとしてのマンガ、政治としてのマンガという課題を「9・11」という事件を媒介に引き寄せるのだ。第二部の後半では、こう書かれる。
〈その[村上知彦、米沢嘉博らの]言説の持つ脱歴史性、それが結果として、描かれた表現から政治性、社会的な意味を読み取ることを読者に放棄させる役割を果たしてきた点を指摘しておきたい。〉(同書148p)
〈いまや私たちはかつて排された「『まんがと社会』や『まんがと文学』『まんがと映画』『まんがとTV』『まんがと思想』その他もろもろの、まんがと他の物を対立させて展開するまんが論」をこそ切実に必要としているのではないか〉(同書149~150p)
かくして、第三部「戦時下のマンガ表現」は第七章「日本という言説空間」に始まり、日米のマンガ、コミックスを語りつつ、政治・社会とマンガという表現との距離を巡る思索が続き、我々が日本マンガを、あるいはマンガやコミックをどうとらえ、比較しつつ関係を考えるべきかという課題を読者に手渡して終章にいたる。ついでのように「日本マンガの海外進出」を巡る日本人の幻想を軽く叩き壊しながら。
議論すべきカ所も、語るべき観点も、面白さを指摘すべきところもまだまだあるのだけれど、かなりタイヘンなことになるので、ここらへんでとりあえずやめよう。
ただ最後に、この本は現在のマンガやコミックについて興味のある人にとって必読といっていいと思う。少なくとも、現在の先端ではこの本が意識されているべきだろう。そして、著者の〈本書はおそらく私がアメリカンコミックスについて論じた最初で最後の本になるだろう〉(315p)という予測と希望(?)は、残念なことに裏切られることになるだろうと、僕は思っている。