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夏目房之介の「で?」

畑中純『1970年代記』

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以前、朝日新聞社のシリーズ「世界の文学」で「マンガと文学」という別冊を監修した。宮本大人、瓜生吉則、鷲谷花、伊藤剛などに書いてもらい、かなり画期的な内容になったと思う。そのときの担当者が、先日留守電に「はじめてマンガの本を編集したので送ります」とあった。そして送られてきたのが畑中純『1970年代記 「まんだら屋の良太」誕生まで』(朝日新聞社)だった。1970~79年の年次ごとの自伝的マンガに、当時の自費出版作品や『まんだら屋の良太』第一回目などが入っている。
『まんだら屋』は大ファンでかつては全部揃えていた。畑中ほど女性のタイプを描きわけられるマンガ家はいなかったし、中年以上のセックスをリアルに描けるという意味では、つげ義春に継ぎ、弘兼憲史に先んじていた(たぶん)。
畑中は

僕と同じ50年生まれだが、3月なので学年は一つ上だろう。出身は北九州小倉で、描く世界も土俗的なエネルギーに満ちていた。出自や背景はまるで違うのだけど、同じ時代にマンガを目指していたので、読んでいると既視感のような共感をおぼえる。偶然だが僕と彼は自費出版を同じ跋折羅社から出している。作品中に出てくるマンガはもちろん、映画や歌、TVや事件は違う場所で同じように出会っていた。自分が何者であるか、何者かになりうるのか、思いまどって迷路にはまっていた感じは、ひとごととは思えない。
「あとがき」にある、次の言葉はまさにひとごとではなく、胸にきた。

〈よく作家は停年が無くっていい、などといわれたりしますが、とんでもない、どの世界の人も平等に、感覚の鈍化を体力の限界を感じて自分で退くか、依頼が無くなって引退させられるか、どちらかの形で晩年を迎えます。ごく希に生涯現役の人もいますが、どの社会でも希なことですし、死ぬまで成長などあり得ないことです。永遠の進化、なんてのは自己か周りがウソをついているのです。作家は二十代に登場し、四十歳頃代表作を作り、後は余力、バリエーションですね。長生きというのは、衰退を長らく晒すということでもあり、残酷な面もありますが、笑い飛ばして暮らしましょう。現象と戦うとか逃げるとか、対し方は色々あるでしょうが、楽しむという対応が一番強いようです。〉(同書 843~844p)

ある面、まったくその通りで、それと直面できないでいるあがきではなくて、直面した上であがく方を選びたいのだけども、どうしても意思力が沮喪してゆく場所に、僕らはそろそろ立っているんだと思う。やれやれ。

ともあれ、畑中のこの仕事は、とてもいいです。
そういえば、すいぶん前に調布か、あのあたりでパーティがあり、畑中純氏につげ義春氏を紹介してもらい、興奮して一緒に話したのを思い出した。あのときはシアワセだったなぁ。

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