オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

「わかりにくさ」について

»

3月18日「吉村和真の小文について」と題した文に、「通りすがりの一言。」(03/18 20:49)と題されたコメントがつきました。「通りすがり」とあるので、まぁそのくらいの受け取り方でいいのだと思います。ただ、ちょっととっかかりにして、いってみたいこともあるので使わせてもらいます。基本的に応答ではありません。
このコメントのような感想をもつ人がいるとして、

僕としては『マンガ夜話』での軽いおしゃべりのような「楽しさ」を文章に求めるのであれば、それはそれで他の本とかがあると思います。僕の本でいえば『夏目房之介の漫画学』(ちくま文庫)とか『消えた魔球』(新潮文庫)とか、80年代の仕事だと近いんじゃないかな。

で、コメントの「結局伊藤さんは何を言いたいの」という疑問は、多分マンガ論、マンガ研究が現在たどりついている知的な水準と場所にある問題意識を共有してないとわかりにくいんだろう、ということだと思いますね。それを共有していると、非常にスリリングで面白いと思うし、またそうでなくとも似たような問題意識の枠組を何らかの経緯で共有していればわかる範囲のものです(共感するか批判的になるかは別として)。ただ著者本人が「全然わかりやすいはずだけど」と思っている(多分)ほどではなく、実際は現時点でさほど多くの人が共有していない分野であることは事実だろうと思います。このへんの距離感は、その人の今いる場所、年齢、知的な経緯、好みなどのファクターで異なってきます。
当該のコメントも、何歳の人が、どんな経緯で、じつはどんな文脈で発した言葉なのかによって意味が違ってきますが、何せ「通りすがり」なので、それは棚にあげちゃっていいでしょう。

このコメント氏は「夏目さんの文章(マンガ評論)も決して読みやすいものだとは思えません」と書いてますが、まぁそういう人はいるだろうというしかないです。
人はそれぞれ、自分の生きている場所において知的な営為をしてしまうので、それがどんな必然をもつかによって、たどってゆく経路が違います。問題意識は、したがって本来的には、その人のいる場所、環境、条件(大は属する国家・民族・言語から小は学校や勤め先、親との関係や恋愛体験にいたるまで)で、千差万別です。
ある程度の知的言語を扱うようになるかどうかも、その必然に沿ったもので、本質的には、別にそうしなけれべならないワケではない。ただ、そうなっちゃうだけです。現在の日本は、教育やネットやの条件で、そうならなくてもいいのに「そうなっちゃう」度合が大きいかもしれず、そのための混乱は当然あるんでしょう。でも、「そうなっちゃう」以上は、ある程度その経路をたどらなければない、ということでしかない。それが知的な営為のもの自然な成り立ちだといっていいと思います。
したがって伊藤君の本や僕の本を「わかりにくい」と感じるのは、まずは問題意識を共有していないという以上の意味をもっていないので、「わかりやすくするべきだ」といういい方も、「修練して問題意識をもたねばならない」という反論も、直接には成り立ちません。「それぞれでいいんじゃない?」ということになるんじゃないでしょうか。

また「みんなにわかってもらいやすいマンガ語りを行うこと」はたしかに僕の「使命」のひとつかもしれませんが、すべてではない。
というよりも、知的な営為というのは、あるレベルに達すると必ずある種の人々に「わかりにくい」と感じる言説領域をもたざるをえないもので、その必然を負う以外に誠実に知的であることはできません。知的な経路としては、できるだけいろんなことを「わかり」、その上でできるだけ「わかりやすく」開いてみせるのが「使命」なのであって、今おきているマンガ論の変化を「難解」だといってみせることが「知的な誠実さ」なのではない。

伊藤さんの本は、どうやらこうした「マンガを語っているのに、難解だ」「わかりにくい」という反応を多く引き出す性質をもっていて、いずれそうした現象の歴史的な「意味」も語られることになるでしょう。
ひとつだけいえるのは、マンガだから「わかりにくい難解な議論」はしなくていい、という発想は(コメント氏がそうなのかどうか不明ですが)、「マンガだから学術的な対象になりえない」とか、「マンガだから読み捨てるだけでいい」というジャンル意識による発想と同様だと思われます。それが許されるのは、おおやけに発言しないレベルの「純粋なただの読者」(もちろん誰でもそういう水準をもっている)のものです。論理的には最初から議論の可能性を捨てているといってもいい。
言葉を扱う、という行為は、よきにせよ悪しきにせよ、そういうレベルを越えていってしまうので、どっちが偉いとかダメだとかの価値判断の問題ではなく、この世界には「誰でもわかる」と思えるような語りと、そうじゃない語りの両方がいつもある、という話なんだろうと思います。その両方の関係をどうするか、という問題意識は、言葉を扱う以上もつべきだと僕は思っていますが、それもまた「僕の必然」においてでしかないかもしれません。
滅多にこういう話題を書くこともないので、ちょっと饒舌になってみました。

Comment(2)