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夏目房之介の「で?」

馬貴派八卦掌練習の反復性

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>読んでる方としては、けっこう走圏が佳境に入ってる気がするなあ。

生島さん、ありがとうございます。返事をコメントしようと思ったんですが、意外に長くなっちゃうのでエントリで。

「佳境」どこじゃないです。自分では「ようやく本格的な練習に入るんだな、と思ったら、自分の弱いダメ部分が出てきて前に進めない」っていう感じなんですね。
馬貴派八卦掌の練習って、進めば進むほど「まだまだ緒についたばかりなんだな、全然できてないな」って思えるようにデキてんじゃないかと思います。
で、

その内容を言語化すると、ほぼ同じ言葉になるんですね。

>前足への荷重、後足の運び方、そのあたりが僕もテーマになってます。

これは、多分初心者も、僕も、もっと進んでる人も、多分同じなんだろうと思います。
僕の場合、前の足に重心を移すときに力が逃げ、上半身に頼って前に出ている。自分じゃそんな感じがしないけど、それができてないからちゃんと力を前に運べず、したがって勁力を歩で生じさせることがそもそもできない。そう遠藤老師にいわれれば、たしかに掌法やってても「力」を感じない。まして対錬では、もう全然力でない。
そこんとこは、みんな同じ課題っていやあ、そうなんですね。だから言葉的にも同じようなものになる。ただ、練習のレベルで内実に差があるのも事実。
じゃ、何が違うかっていうと、「つながり」や「まとまり」の内感覚の実感と、質量の感覚の大きさ。つまり実感的な保証みたいなもんじゃないでしょうか。僕らのレベルでは。おなかのあたりに球形の張った感覚があり、そこを中心に動くっていう感覚。でも、この言葉も、同じ実体的感覚を意味してるとは限らない。それは上級者の眼で見てのみ、わかるような。
それがわかってくると、つねに自分の今に対して疑いも生まれて、ホントは違うかもしれないっていう本質的な問いをつねに判断停止状態で「待て」にしておいて、とりあえずの実感をあえて「信じる」という選択をするみたいな感じですね。僕の場合は。

それと、「今の自分はまだまだだ」っていう感覚は、次第に「できない」がわかる分だけ「できた状態」のイメージが具体化するってことでもあります。それは練習の質の進展にもかかわる。僕の場合でいったら対錬で自分の絶対的な質量の不足を感じたこと、また対錬によって足がちゃんと噛んで踏み込んでいないし、腰が伸びてしまうので全然「力」につながらないっていう自覚。それらが当然、今まで何となくできてると思ってた掌法のどこがダメかを自覚させる。さらに、それは走圏のできなさ加減に起因するというフィードバック。
それが結局、自分の練習は全体としてデキてないじゃん、っていう自覚になっちゃうんですね。でも、自分より練習の浅い人の「デキてなさ」はより具体的に見えるようになるんで、進んでいるのも相対的にわかるはワカルんですけどね。

対錬って、何である程度の質量を獲得してないとやっても意味ないかっていうと、僕の感じた限りでは、馬貴派的な質量(勁力の元)がない分、他の力(筋力でも、推手的な感覚でも、他の武術で鍛錬した部分でもいい)でどうしてもカバーしちゃうし、対錬の意味そのものを必然的に「誤解」しちゃうからだと思います。
馬貴派のいう勁力ができてる分だけ、それに頼って相手にプレッシャーを与え、また撥ね返すようにできる。それではじめて練習できるんだけども、同じくらいに練習したところで、もともとの体格、質量の差はやはり反映するので、小さくても同じ力をもてるわけじゃないんです。そうなると、僕と練習した人は僕に合わせて力を加減しないといけなくて、その分練習にならない。僕が悩んだのはそのことです。それに、手加減しない人も当然いて、そうなるとこっちは他の力、たとえば下にもぐりこんでごまかすとか、そういうことをしないと対錬ができない。そうなるとこっちも練習にならない。おそらく、絶対的な質量の差をカバーする方法はまだ先にならないと教えてもらえないはずで、当分この状態は続くわけです。

あ、グチになってしまった。
いいたいのは、そういうことは直感的にわかるし、筋道としてもわかるんですけども、今は走圏自体に快感がないのが一番の問題なんですね。こういうのが、練習の過程でありうることなのかどうかも知りませんが、いずれクリアできることを信じるしかないですね。

何かまとまんなくなっちゃいました。すいません。

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