吉村和真の小文について
伊藤剛『テヅカ イズ デッド』以来、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』、小田切博『戦争はいかにマンガを変えるか』など、今後のマンガ論、マンガ研究の方向を指し示すような注目すべきマンガ論が立て続けに刊行されている。僕もそれに反応すべきだと思いつつ、追いつかない。小田切の本は、まだ読んでいる最中だ。
いずれもすぐれた達成で、いずれ紹介したい。
でも、ここで現在のマンガ論の推移を担う新世代の中で、あまり派手に出てこない吉村和真について書いておきたい。彼は、僕はよく触れる宮本大人などとも同じアカデミックの世界でマンガを正面からやろうとしている新世代の一人だ。日本マンガ学会、京都国際マンガ・ミュージアムに関わり京都精華大学に籍を置く。
彼が書いた短い文章「「戦後」「マンガ」「歴史」を接着するために」は、水声通信No.14「特集 戦後マンガ史論をどう書くか」(水声社 06年12月15日号)に載った、わずか4pの小文である。が、そこには彼らしい誠実な取り組み方の思考が書かれていて、僕はマンガ研究者が共有していい問題意識のように思えた。具体的なマンガのことよりも、「マンガ」という現象がなぜ、どのように問題化されるのか。そこに、当たり前のように「戦後」とか「歴史」とかの言葉が接続されることを、あえて問い返している。
「歴史とは何か」という問いをあえて立てて、こう書いている。
〈例えば、「日本初のマンガは『鳥獣戯画』である」という見方に反論するのはいいとして、その根拠を別の「起源」で説明することの功罪をどう考えるのか。また、日本語とマンガの表現的特徴を重ね合わせて、日本文化の優位性を語る言説に対し、画一的な日本文化論批判に留まらず、そこから先に議論を進めるにはいかなる論理が必要なのか。さらには、マンガを「近代」という枠組みとの関係から説明するのであれば、マンガが帯びた「近代性」を指摘するだけでなく、逆にマンガがいかなる意味で「近代」の輪郭を形作る一因となってきたのか、それをあわせて考察する必要はないのか。〉(同書 52p)
その上で〈この種の問いかけの本来の目的は、議論の決着よりも、その持続にこそ存在する〉としている。
この問いかけはマンガを考える枠組みの変更を、現在の水準でなそうとするとき必然的にともなうもので、歴史観・思想を必要とする、というよりそれをひきづり出す種類の問いである。僕の中にも、もちろん潜在したが、なかなか形をとることはない。とくにエッセイなどを主戦場としていると、こうしたメタレベルの大上段の問いはけっこう難しい。
吉村が、この小文でその問いを発したのは、彼個人の研究者としての位置がもたらしただけではなく、伊藤や永山、小田切などと共有される議論の必然でもあると思われる。そう簡単に答えたりできる問題ではないのはもちろんだが、共有されるべき議論だと思ったので、紹介することにした。