今日の『ウチくる?』に春風亭昇太が出てた。
この番組も好きなんだけど、今日は面白かったな。見てて何も考えないですんで楽しくなる。昇太は、ホントにフラのあるヒトだと思う。ただ何かしゃべってるだけでおかしい。飯島愛が、多分いちばんその部分に反応してた。
別に本格的に昇太の落語を見たわけじゃない。もともとこういう新作系、破格系の落語にはあまり興味がない。だったら落語家じゃなくてトークでいくらでも面白いヒトいるし、という感じだったし。でも、昇太の落語は「面白い」んだよね。不思議な感じだった。あきらかに「落語じゃなさそうな」話なのに、ナゼかそのオカシさに「落語」も感じられた気がするんだよね。まぁ、あんまりちゃんと聞いてないので、無責任な印象ですけども。
ずいぶん前、
談志の立川流門下・立川藤志楼(たてかわとうしろう)こと高田文夫さんの真打昇進記念(だった気がする・・・・とすれば88年)の公演を見に行った。そのとき高田さんの前に高座に上がったのは、毒蝮三太夫、たけし、景山民夫などの各氏。たけし、景山は、ご存知のようにむちゃくちゃ話がうまい。面白い。でも、不思議なことに、どこまでいってもトークであって、落語じゃないんだよね。
もちろん面白いからいいんだけど、かといって「よぉし落語を聴くぞ」と思って聞く期待値からすれば肩透かしなのだった。宙ぶらりんに取り残された感じ。その中では、たしかに高田さんはもっとも「落語になっていた」。それが一体、何によってなのか、よくわからないものの、落語としての満足感があるかないか、というのは、ただトークとしておかしい、面白いかとは別に、ジャンルに対する受け手の期待値としてあるんだなぁと、つくづく思ったのでした。
そのとき印象的だったのは、最後に出てきた談志が、そこらの落語家よりも、このトークの名人たちの話のほうが、よっぽど面白いんだといいながら複雑な顔をしてたことだった。勝手な妄想だけど「面白い! 確かに! でも、落語じゃないんだよ! これをどう考えたらいいのかが問題なんだよなぁ」って顔に僕には見えたのだった。
さて、つい最近岡田斗司夫氏が落語をやったらしく、そのときの客の反応が、まさにこの「面白いけど落語じゃない」だったことに「そんなだからダメなんだ、新しいものを否定して伝統のイメージだけ求めてたら」みたいなことをサイトで書いていた。それは、一見まともな意見に見えるんだけど、でも、そもそもジャンルというものの成立には、そのへんのせめぎあいが不可避なんだと思う。そのキワで「あれは落語じゃない」「いや、あれこそが落語だ」「どっちでもいいよ、面白ければ」みたいな議論になったりしながら、メディアのジャンル自体が変化生成していくもんだと思う。
そして、受け手はつねに一定の期待値をジャンルに対してもつし、もたないとじつは「受容」という行為そのものが成り立たなかったりするんじゃないかと思うんだね。仮に「自然」から受ける感動だとしても、それは「いつもの都会じゃない自然の中」という期待値のカテゴリーの枠付けによって可能になるんだろう、といったような意味で。
つまりメディアやジャンルの変化生成は、期待値と逸脱の関係で成り立つけれども、逆に言えば「まさにコレこそが落語」とかっていう「中心」のあるカテゴリーを必要とするってことだね。だから「これが落語だって既成概念を捨てないとダメ」っていういいかたは、じつは正確ではない。抵抗文化はつねに既成に依存してるし、ホントにそれを外すのはじつのところ「何それ? 知らない」(無視)だもんね。成熟した大衆文化には、そういうとこがあると僕は思ってたりする。
ちなみにジャンルが強固なハイカルチャーだったりすると、対抗文化(前衛でもいいけど)による相対化は、それ自体が目的化してしまう。現代芸術なんかには、そういうか弱さとか線の細さを感じるね、僕は。依存していながら、自身は「依存のない純粋芸術」っていう欺瞞を本来的にまとっちゃう気もする。個人的な「感想」ですけども。
そんなわけで「あれは落語じゃない」以下の議論や「これこそ落語」とか「どこか落語的な面白さがある」とかっていいかたは、落語の語をジャズ、絵画、マンガ、芸術などなど、お好きなジャンルをあてはめて、それぞれの価値を意味する「面白い」「おかしい」「美しい」「イイ」「旨い」とか挿げ替えれば成り立つ。
そういう意味では、僕が大学時代に、当時の山下洋輔ジャズがジャズじゃないと呼ばれつつ「いや、これこそ原ジャズなんだ」とした山下自身の枠付けに沿って、佐々木マキに「マンガの周縁=こっから先はマンガじゃない領域」を見たとき、じつは「マンガの中心領域」が想定されていた。まさにそのことで「マンガを成り立たせる最小限の要素」を見出すわけで、そういうダイナミズムで「それが何であるか」を発見してったりするんだろうね。もちろん、それは時代の言説に規定されているので、次第に変容してゆくわけだけどね。
話がそれずぎたので、このへんで・・・・おそまつさまでした。てけてんてんてん・・・・♪
Special
- PR -| 岡田斗司夫 | 2006/12/04 00:29 |
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夏目さんの意見、まったく同意なんですよ。でも僕が困っちゃったのは、「落語とはなにか?」という疑問なしでの否定形だったんですよね。具体的に言うと、既存の一門に属してないから落語じゃない、という否定のされ方。 と言いながらも、このコメントの本題はこっちではありません。 | |
| fusa | 2006/12/04 01:06 |
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岡田さん | |
| madi | 2006/12/04 01:31 |
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落語期待してます。 落語マンガも「わらばな」がコケたみたいで、もっとでてきてほしいんですけどねえ。 なお、鳥山あきら「ドクター・スランプ」には高座姿の笑福亭鶴瓶師匠(アフロヘア時代)が登場するコマがあります。 | |
| ヤマダトモコ | 2006/12/04 02:30 |
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春風亭昇太に反応して、コメントさせていただきます。 昇太、好きなんです。って言っても追っかけてるとかではなくて、テレビをフトつけて出てると嬉しくなってみちゃう、というくらいの好き、ですが。 私、以前は落語のどこを楽しめばいいのかあまりわからなかったんです。ソバをすするマネのシーンとかは無条件に好きだったんですが。今でもそんなにわかってるわけではないのですが、少しはおもしろいと思えるようになったきっかけが昇太の落語でした。 以前談志が中心になって「落語のピン」という深夜番組をやってたたことがあるのですが、これをなんとなく毎週観てました。でも、当時の私がホントに「おもしろいなあ」と思えるのは、談志と昇太、時々小朝でした。そ中でも一番楽しみにしてたのは昇太の落語でした。 自分でも「昇太の落語が好きっていうのは、きっと落語の本流からはハズれてるんだろうなあ…」と思ってました。でも、あのやけくそな感じが、なんだか感覚にあったんだと思います。 興味深いのは、昇太の落語を楽しみにして聞いているうちに、以前より格段に落語自体を「おもしろい」と思える様になってる自分に気づいたことです。今でも特に落語ファンではないですが、前よりはずっと楽しんで聞けます。 昇太には、落語のことが全然わからない人を、昇太という人だけにではなくて、落語のほうに連れてくる力があるんじゃないでしょうか。夏目さんのおっしゃる“オカシさに「落語」も感じられた”というのは、そういうこと、つまり「落語」のほうに人をひきこむ力があるかどうかなんじゃないでしょうか…。 かっての佐々木マキには、「これはマンガなのかどうかな」と思うけど、でも、「マンガって何なのかな…?」って考えさせることで、マンガのほうに人を引き込む力がありましたよね。これは、赤瀬川源平さんの作品とかにはあんまり感じられない感覚でした。
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| 岡田斗司夫 | 2006/12/04 02:47 |
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やりましょうよ! | |
| Eggの黄味 | 2006/12/04 09:06 |
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そうだ!週末んのイベントで、一席どう? | |
| すがやみつる | 2006/12/04 11:45 |
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落語とトーク(あるいは漫談)の違いは、「視点の有無」ではないでしょうか。落語家が登場人物を演じ分けるのが落語。同じ落語家が、マクラのまま「漫談」をつづけてしまうのがトーク。 | |
| いわと | 2006/12/04 13:52 |
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岡田さん、八卦掌は中止ですか? | |
| Aa | 2006/12/04 18:04 |
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ツービートの衝撃を誰かが(似顔絵塾の塾長さん?)こう喝破していました。 | |
| nomad | 2006/12/04 21:14 |
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春風亭昇太はいいですよね。いや、彼の落語は聞いたこと無くて申し訳ないんですけど、立ち居振る舞いにおかしみがありますよね。 | |
| madi | 2006/12/10 02:35 |
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西尾維新「化物語」(上)講談社を読んでて、会話ではなしがすすみ、オチがあるので落語かいな、と思っておりました。気鋭の落語家に演じてもらえないでしょうか。 | |
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