『のだめカンタービレ』と「キャラ」の現在
やっぱり、けっこう面白いけどなぁ、テレビ。
オーボエのクロダなんか、かなりイイんじゃないかね。のだめに恋する瞬間なんか笑ってしまったよ。ところで、今日気づいたんだけど「ピンクのモーツァルト」って松田聖子だったっけ? 遅!
先日、前の奥さんの家で6人ほどで話していてテレビ『のだめ』の話になった。前奥さんは、あまりにも無理にマンガを真似た学芸会がシラけて全然ダメな人で、たしかにそういう意見もブログで散見する。でも、今日のハリセンがのだめを片手でポイと持ち上げてピアノに座らせるとこなんか「マンガやってます!」っていうのがおかしかったんだけどな、僕は。のだめの先生だった西村とハリセンもよかったな。ミッチーもそろそろ本領発揮するかな。
まずは、この「わざとらしさ」を受け入れるかどうかで賛否両論がくっきり分かれる傾向にあるみたいだ。ひょっとしてリアリズム傾向の受け手に拒絶感が強いんだろうか。
次に、
誰それはあってる、いや違和感が・・・・というキャスティング話になったのだが、これがもう人それぞれで喧々囂々。
「上野樹里がぴったしだと思うけどな」
「えー! ダメじゃん、あれ。絶対やだ」
「いや、あんな感じだよ」
「私の中ののだめちゃんは、ああいう喋り方じゃないのよ!」
「私は千秋が違うと思う」
「え? いいと思うな、あのイヤらしさが」
「えー、でもあの指揮は許せない」
「そりゃ、しょうがないんじゃないかねー」
「私はミッチーがダメ」
「うん、僕もミッチーは好きだけど、違和感があるな」
「いや、基本的に竹中直人のシュトレーゼマンが出た時点で何でもアリだよ」
「うん、それはあるなぁ」
「面白いねぇ。人それぞれ『のだめ』の思い入れてるトコが違うんだねー」
というような話が俄然盛り上がったのだった。多分、マンガを読んでいるときのキャラクターへの感情移入の優先順位とかで違うんだろうねぇ。しかし、30代から50代の男女が酒飲みながら盛り上がる話題がコレだっていうのも、何かいいねぇ。みんないっせいに雀みたいにピーチク始めるんだもんなぁ。
こういうテレビドラマが成り立つためには、作り手も演者も受け手も、マンガという表現のツボとか特徴とかを共有して、それを「わざとらしく」表現することを受けとる下地がないといけない。マンガのリテラシーの成熟と、その共有感覚をどういうレベルで再現するかっていう面白さの合意みたいなものっていうか。
『西洋骨董洋菓子店』のときの阿部寛がどんぴしゃだと思っていたら、椎名桔平が「これ、アベちゃんしかいないよ」っていって決まったキャスティングで、しかもじつは原作者が彼を連想して描いていたって話は、前によしながさんから聞いてコラムに書いた。ここには、マンガのキャラクターがすでに俳優やタレントのキャラクターと相互に参照する形で共有されるようなリテラシーが成り立っていることを予想させる。今の映画、テレビのマンガ原作ブームには、そういうリテラシー共有関係の背景があるんだと思う。
そういう形で現在のテレビや映画も作られており、逆にマンガやアニメも(無意識にせよ)作られているとすれば、そこで問題になるのはまさに「テクストから遊離するキャラ」かもしれない。ただ、ここでは映像と画像が互いに浸透しあってるので、伊藤剛の定義とはズレてくるけど、多分言語表現も含めて相互に参照しあうようになってるんだと思う。