『手塚~起源』授賞「問題」について
竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』のサントリー学芸賞受賞に関して、まず批判的な反応がマンガ論系ブログで始まり、その後けっこう「ある種の反響」というか、どっちかつうと「盛り上がってるみたいだぜ」的な「盛り上がり」のようなものになりつつあります。
でも、これもブログの特徴のひとつでしょうが、最初の反応に反応している二次的な反応群は、ほとんどが『手塚~起源』を読んでない人だったりします。そもそもが「お気楽」なブログなわけだから、別に当該の本を読んでなかったら書いちゃいけないとかって話じゃないですが、最初の反応と二次的反応のあいだには、マンガを考えたりする上での「切実さ」に大きな距離があります。
くりかえしますが、それが「悪い」わけではない。が、
この受賞問題がブログで「問題」化する事態に対しては、いくつか基礎的に考えておいたほうがいい事柄があるように思います。
ブログというのは(A)「けっこう気軽に、シリアスな話から日常茶飯事まで、様々な文体をチューニングし分けて語れるパーソナルなメディア」でありながら、同時に(B)「即座に膨大な(とりあえず日本語の)ネット参加者の海に放たれ、多くの人が無差別に参加可能性をももちうるメディア」でもある。
(A)は、比ゆ的にいうとごく仲のいい同士の茶飲み話とか研究者同士の意見交換などに近いフランクさと親密さ、あるいはコードを共有した同士のシリアスさをもつ場面。
(B)は、その話題に詳しくない人も含む不特定多数的な人々が、それぞれのレベルで、それぞれ異なった文体で語り始める場面。
この二つが極端に乖離したまま出会うと、往々にして議論が混乱し、ただの冗談や軽い皮肉ですむはずのものが、いきなり国会答弁のような固い文体とコードに接続される。ネットでかわされる議論は、この文体や文脈、コードの違いをときほぐす余裕のないまま混乱を加速度的に増してゆく場合が多いように思えます。
今回の受賞に批判的な最初の反応を起こした、僕を含む人々には「マンガを考えること、語ること」についての、ある範囲の共有された判断基準がありました。そこにおいてほとんど当たり前のことが、本を読んでいない二次的な反応の人々にとっては「一体何に苛立っているのか理解不能」である、という事態。このことをまず押さえておく必要があるだろうと思います。
いささか語弊があるかもしれませんが、今回の受賞がいかにダメダメな事態であるかという判断基準は、まだホンの一部にしか共有されていないということです。この基準は、したがって「今まさに立ち上がろうとしているマンガ研究についての先端的な課題」という各人の優先順位、それについての意識の如何によって濃淡を左右されます。
現状では、マンガ研究の課題はまだまだ浸透していないし、どんなマンガ論が受賞しようと、ほとんど興味を引かない。そんな状態の中に僕らはいて、そこで始めなければならない、ということを実感する事態だったと考えるべきですね。共有されている課題の中で考え、語ることと、まったくそれが通じない世界でやることは、当然違ってくる。その距離を測定しながら、やりかたを考えるしかないんです。
でも、こういう問題が起こるとこまできた、って僕なんかは一方で思いますけど。
とはいえ、この受賞が「一部のマニアックな連中には不評だが、一般的にはわかりやすいし、それなりの意味があるのだ」といえるかといえば、いえません。あいかわらず、この受賞はダメです。なぜなら、マンガ論の課題とかをまったく別にしても『手塚~起源』の論の立て方、論証のしかたは、ズサンだからです。少なくとも手塚を論じ、論証しようとするに当たって、他に当たるべき文献も資料もあるのに、ほぼ百パーセント手塚自身の言説を根拠にするというのは、論文としての形式を備えていないと僕には思えます。批評エッセイとしても我田引水な程度の悪いものですが、せめて自分の印象を語ったのだという「自分が知らないこと」を保留した形式をとっていれば、面白い観点を指摘することもできたでしょうが。
誤解される可能性があるので、いっておきますが、僕は「伊藤剛『テヅカ イズ』がとれなくて『手塚~起源』がとるとは何たることか」と呆れたのではありません。『手塚~起源』が賞をとったこと、そのものに呆れています。
今、思い出せるだけでも、最近出たマンガ論関係の本には秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ』、竹内オサム『マンガ表現学入門』、ヨコタ村上孝之『マンガは欲望する』などがあり、貸本マンガ史研究会『貸本マンガRETURNS』、宮原照夫『実録!少年マガジン編集奮闘記』、堀淵清治『萌えるアメリカ』などの労作もある。このいずれの本と比較しても『手塚~起源』の質はかなり落ちます。僕の感覚でいえば問題外なんですが、それが受賞したというのは本当に驚きでした。
たとえば宮本氏は、大学の研究者という立場でマンガを考えていこうとしており、その場の成立には自分も責任があるのだ、という受け取り方をしています。僕はいわば「客商売」の批評家なので、そこまでシリアスな感じはもっていませんが、しかしそれなりにマンガ論の昨今の盛り上がりと潮流を感じており、少なくとも去年~今年刊行されたマンガ論関係の本の中で、よりによって最悪の選択だなという印象をもっています。
もちろん、これらの批判的な感受が「絶対に正しい」などという保証はありませんが、まともに物事を考える筋道だけでいっても『手塚~起源』は及第点はとれません。いちいち証明するのもめんどうだし、知りたい人は、まず自分で本を読み、自分で判断し、ブログ「恍惚都市」などから様々な反応をたどれば、おおよその批判点はわかるはずです。
そして、これがもうひとつの要点で、すでに他でも言及されていますが、なぜそんな本が受賞したかといえば、授賞する側が「マンガ論なんてこんなもんだろ」とタカをくくっており、他の本や仕事を知らない可能性が高い、ということです。じつは、苛立ちの多くはこの点にあります。無意識にせよ「あなどってる」んですね。
じっさい人は自分の専門外のことに関しては、驚くほど無関心だし、無知だし、そのことに鈍感です。多分、誰でもそのことを逃れられません。ことは、ある程度のレベルに達し始めたジャンルであれば、必然的におこりうる事態だったといえます。仮に、これが数十年前に書かれたものだったら、この本でも評価される意味はあったかもしれない。でも、マンガ研究は本当にここ数年で劇的に変化しているので、いわば周囲が突出に追いつけない事態になっているんだと思います。
もちろん自分が他のジャンルに対して同じ過ちを犯す可能性がないとはいえない。でも、そうだとしても、やはり竹内一郎の過大な自己申告と選者の評価の錯誤は、問題にされたほうがいいだろうと思います。僕のいいたいところが伝わっているでしょうか?
伝法にいいかえてみると「まぁまぁ、そんなにトンガるなよ、よくあることさ。おめぇだって、そうだろ?」というような反応に対して「そりゃあ、わかってるけどさ。いっとかなきゃいけねぇってこともあらぁな」といっておきたい、みたいなことでした。
何かちょっとムダに長くなってきてる気がするので、このへんで今日はおしまい。