オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

とりとめもなく、友人の死に

»

 このところ、立て続けに二人、同年代の友人を失った。二人とも、ものすごく親しいというほどではなく、たまに会う程度だったが、悪印象をもったことはない。
 一人は、僕より数歳上で、海外旅行から帰って突如倒れた。脳内の出血が脳幹に達し、処置が早かったにも関わらず亡くなった。まだ亡くなる前、いわゆる植物状態で横たわっているときに病院にいったが、同行の友人と、昔一緒にタイに行ったときのことばかり話して帰った。彼は、僕の中でそのときのままで、

そのときの記憶を引き出してくれた。もう二十年近く昔の話だ。ああ、そういえばお互いに落語が好きで、六本木のバーで若い女の子を相手に二人で落語を啓蒙したこともあった。その店でたまに会ったのだ。まだ僕は30代で世間はバブルに浮かれていた。
 もう一人は、米沢嘉博氏。昨夜、突然訃報に接した。その直後から、ブログやミクシ周辺で多くの人の記事に会う。彼に会ったこともない人も、コミケのリーダーということから反応する人が多い。僕はコミケに詳しくないのでわからないが、彼がいなくなることでコミケ自体が変わるか、終わってゆくかするのではないか、という反応もある。あれだけ巨大になったものが、そう簡単に一人の存在で左右されるだろうか、ともいえるし、いや、彼の死はある種の変化の象徴だから、ありうるだろうといういいかたもありうる。
 いずれにせよ、米沢さんの死は、本当に多くの人に共有されている。コミケ自体でいえば、一日の参加者だけで数十万の単位だ。それだけ大きなものを、かなり長い間彼は意識の中で抱えていたのである。もちろん多くの仲間と共有しながらだろうが、どんな経緯であれ、その頂点にいると見なされながら、そうし続けてきた。おそらくは、それだけ多くの毀誉褒貶を伴い、ネガティブにしか語らない人々もそれだけ多いだろう。それが、多くの人に共有された人の必然だ。米沢さんは、僕より3歳下だった。
 年上だった友人は、そういう意味では、それほど多くの未知の人々に共有されていない。世間的にはひっそりと失われてゆくだろう。米沢さんも、彼の身内の中では同じようであるに違いない。また、二人とも、現在の日本ではとても若い「死」とみなされるだろう。早すぎる、と。
 僕自身は、人の死に接して「早すぎる」と思うことは、あまりなかった。昔、大学生の義理のイトコを失ったときには、心底そう思い、泣いたが、最近はあまり思わない。それだけ、僕もトシをへたのかもしれない。もっとも、息子たちが今死んだら、そう思うに違いないが。
 それよりも、彼らの死は、僕にとって「案外、俺も近いのかな」と思わせる。本気でそう思ってはいないが、それが今月やってこないという保証もない。そろそろ、たまにそう思って生きていろということなのだろうか。

Comment(13)