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夏目房之介の「で?」

宮本大人講義「手塚治虫とそれ以前」メモ

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 9月2日(土)、朝日カルチャーセンターでの宮本大人氏講義「手塚治虫とそれ以前ー 〈子供漫画〉から〈少年漫画〉へー」を聴講しました。これまでの宮本君の研究の総まとめ的な見通しの講義でした。それなりに彼の営為を辿ってきている僕からは、ほぼこれまで読んだり聞いたりしてきた話でもありますが、それでも、とくに結論的な部分に新たな見解が見えて非常に興味深いものでした。できるだけ多くの人に共有されるべき議論だと思うので、宮本氏のレジュメをもとにメモ的に記録しておきます。僕の理解しえた限りなので、誤解や曖昧さがあると思います。そのへんは、やがて彼が書くであろう本を読めば修正できるものと考えます(なかなか書かないから、こういうことしてるんですけどね)。

 なお、本稿は一応宮本君に読んでもらっています。もし、修正などあればコメントで入れてくれると思います。

 宮本大人講義「手塚治虫とそれ以前ー 〈子供漫画〉から〈少年漫画〉へー」メモ

1)手塚治虫と〈戦後〉マンガの課題としての〈成長〉

●マンガ批評的な言説において共有されてきた「手塚マンガ=成長物語の導入=戦後マンガの確立」論の諸相

教育的な見地から「与える」ものではないマンガ=手塚マンガ
手塚は〈こどもたちと同じように、マンガに飢えていた〉〈提供者と、受け取った側との同時性〉 西上ハルオ「「新宝島」研究」『ジュンマンガ』1号 68年

自己表現としての戦後手塚マンガ →〈近代的な自我意識を前提に内面的な心理劇が成立して、それによってドラマが形成〉=〈物語〉の導入 夏目房之介『手塚治虫の冒険』 98年[夏目註 これは文庫ですね。初出は筑摩で95年]

手塚戦後マンガの(近代文学的)内面表現の成立 →戦争体験による〈不条理を感じる「心」〉と〈傷つく身体〉の獲得 大塚英志「戦後まんがは『心』をどう表現してきたか」 色川大吉編『現代の世相7 心とメディア』 97年

『冒険ダン吉』も『のらくろ』も〈連載漫画の時間は基本的に先へ進むことができなかった。「始まり」→「展開」→「終わり」という時間進行は抑制され、[略]物語が先へと展開し、最後に「終わる」ということもない。〉→手塚『ジャングル大帝』における「成長」物語 鷲谷花「漫画の時間、小説の時間」『週刊朝日百科 世界の文学10 マンガと文学』 2001年

2)のらくろにおける死の可能性と〈成熟〉

●鷲谷が指摘し、しばしば戦前マンガの典型として語られる『のらくろ』の、「大陸三部作」(宮本命名 昭和14年以降)の変化=傷つき、死を現実的に予感させるのらくろ

ここは宮本大人「ある犬の半生ー『のらくろ』と〈戦争〉」 日本マンガ学会『マンガ研究』Vol.2 02年 参照

●これまでいわれてきた「戦前漫画」の典型・類型理解への修正 戦前から「死」を含みうる「傷つく身体」は可能性としてありえた 「成長」課題を「描けなかった」のではなく「描かなかった」のでは

3)島田啓三の技法はなぜ〈成長〉描写に活かされなかったのか

『のらくろ』にはさほど顕著でない「汗、涙」「怒りの蒸気」など「マンガ的」な記号表現を、アメリカ・マンガの影響で頻出させたのは島田啓三だった。『ダン吉』の「汗・涙」の頻出は、戦後の手塚『来るべき世界』と比べても同程度である。
 →夏目『手塚の冒険』で『来るべき世界』の「汗・涙」、擬音の使い方など「記号的表現」を数量的に計測して戦前と比較しているが、島田『ダン吉』と比較していない。
が、『ダン吉』の記号表現が活劇性の強調、誇張された感情表現のため
→手塚「悲劇的要素がすごく多いことと関係する」(夏目)

島田がアメリカの漫画映画から「輸入」した技法
同時代に「記号的表現」が「漫画」にできる技法として、ハウツー書に紹介されている 山口晃『漫画独習手本 基本練習の巻・人物の巻』昭和14年

大陸三部作的な世界観(時代と場所を、現実の中国大陸での戦争と地理的条件として特定できてしまうような「リアル」な設定と、それに見合う「リアル」なのらくろの身体を含む世界観)と島田的な技法を組み合わせれば、(戦後)手塚的なものはある程度できてしまうのでは?

事実、少年小説の世界には「悲劇的な要素」がすでに存在

なぜ手塚の仕事まで10年かかったのか?(●なぜ戦後マンガでやっと「悲劇的」物語が可能になったのか?)
読者への配慮、あるいはそれを要求する力の存在
(●「戦前戦中までは、マンガ家も技法も「未成熟」だったので、「悲劇」や「内面」が描けなかった」というマンガ言説の「思い込み」への批判的注釈)

●のらくろ=「子供漫画」としての抑制の強い、よりポピュラーでおとなしい表現
 島田=より米漫画映画的な過激な記号表現=「マンガ的なるもの」の前面化
 天店という対比で語る点に注目したい(島田のそれと手塚のそれが「同程度」かどうかは、じっさいに見てみないとわからない)

4)〈成長〉の要請、感情表現の抑制ー児童読物統制の論理ー

昭和13年10月末「児童読物改善ニ関スル指示要綱」通達 当時の先進的教育理念 「左翼的」な児童文学者・知識人の協力による論理→ 戦後の「悪書追放運動」の論理
指導的な人物も同一だった(波多野完冶、菅忠道、滑川道夫など)

〈[空想と現実を混同し欲求のままに進む]子供の本質と子供を大人にしようとする力、その二つが實を云へば児童心理の全体なのである〉
 社会は、つねに子供を導き、社会化して大人にするための「抑圧」をもたらすべき
 波多野完冶「児童心理の文学ー「坪田譲冶の作品」-」『児童』昭和10年

「児童読物指示要綱」については宮本「マンガと乗り物~「新宝島」とそれ以前」『誕生!「手塚治虫」』朝日ソノラマ 98年 など参照

5)〈成長〉すること

1. 孤独、危難、死の想起ー〈成長〉をもたらす別離の「経験」-
「指示要綱」の「(ことに長編)漫画を減する」方針による「絵物語」形式への移行
セリフなどを詞書化する、実質的なマンガ表現との曖昧な境界性
●漫画と絵物語、絵本を別モノと考え排除してしまうために見えなくなっていることへの批判的観点

横山隆一『小さな船長さん』昭和14年 水上生活者で母の死、父の出征で一人になった少年の孤独 「自立」の示唆 「成長」課題の導入 「死」や危険と「内面」の成立へ

〈子供向け物語漫画界における、講談社系の作家から新漫画派集団へのヘゲモニーの移行。〉
[夏目註 ●ここは重要な指摘。宮本の展開してきた戦前・戦中・戦後の連続性・非連続性の検証がさらに精緻になってきた部分]

指示要綱に沿ったマンガ・絵物語の試行錯誤 芳賀たかし『愉快な小熊』昭和15年(文部省推薦)[夏目註・以前、宮本の講義でスライド見たが「愉快」どころか、非常に物悲しい小熊の物語。『シートン動物記』の冒頭を使った小熊のお話]

2.抱え持った「弱さ」-分かり合うこと、克服することー

吉田忠夫『赤助青助』昭和15年 続編
都会のひ弱な少年が田舎の少年との出会いで成長し「弱さ」を克服し、同時に田舎の少年の「弱さ」を分かり、協力しようとすること →情緒的で「さみしい」別れ 「見送る」場面で終わる シルエット表現(川面に写る人影など)の「さみしい」表現の指摘(それまでの講談社系ではなかった)

3.「日本人」になること

渡辺加三『コドモ海洋丸』昭和15年、『不思議な国 印度の旅』昭和16年、杉浦茂『コドモ南海記』昭和17年、芳賀たかし『五少年漂流記』昭和17年など
異国と出会って「日本人」を確認する 指導的民族としての「日本人」

4.「少国民」になること
 〈死の可能性に触れる「経験」が、少年たちを〈成長〉させる〉
 筑波三郎『戦ふ勇太』昭和17年 自制心 心の中の「邪魔もの」と戦う必要
 芳賀たかし『正太トケヤキノ木』昭和18年 成長の一側面としての〈自制心〉

5.見送ること
 加茂京介・津田たかし『小犬の従軍』昭和18年 日本兵に拾われた小犬が、行軍についていけず脱落するが、見送りながら「ばんざい」を叫ぶ(場面として相当に「悲しい」
この頃の絵本は、要綱の指示に沿って「少国民」への「成長」を忠実に描こうとしながら、やたらと「さみしい」
さすがに、やがて軍部からも「これでは戦意高揚にならん」との批判が出たらしい

6.分かり合うこと

7.〈成長〉の終わり

キャラクターの「内面」=他のキャラクターから見たときの不透明性

「お国のために死ぬ」ことのできる「少国民」にふさわしい「成長」
=成長課題のそれなりの「達成」 →実質的に昭和18年頃までで一度終わる

平井房人「カンチャン」シリーズ 昭和17~19年

「少国民」=小さな「国民」 

このジャンルは、立派な「国民」になる以外の〈成長〉のイメージを持たぬまま終わる

戦後、これらの「成長」課題への過程はいったん清算され、戦時下の「国民」という最終目標を失った形で、手塚によって再構築された

それなりに戦時下において「物語」を構築した作家(島田)たちが、戦後の手塚に、からい評価を与えたのも、こうした背景があってのことでは?

[夏目註 ●最後の部分(戦時から戦後の連続・非連続の検証部分)が見所。
「成長課題」は、戦後、突然変異のごとく生じたのではなく、じつは戦前にも可能だった。が、マンガというジャンルゆえの抑制で、そこへ進まなかった。戦時下、国歌総動員的な法制と進歩的教育理念の要請が、じつは「成長」課題と「内面」表現を実現していた。
この「良心的」理念と実践の破産と挫折を、戦後、児童文学者など指導者は、戦争という外的条件によるものと総括し、戦後の「悪書追放」へとつながる

●質疑においても出たように、しかし、この戦時下の「成長」課題的なマンガ・絵物語・絵本は、どれだけ読まれ、共有されたか不明で、おそらくあまり共有されなかった可能性がある。それゆえ、戦後において手塚も、そのあとの世代も、つねに『のらくろ』『ダン吉』を回想しても、ここで紹介されたような「さみしい」物語を回想しなかったのではないか。復刊の可能性も低かった。それが、ここで宮本によって発掘された「ミッシング・リング」を見失わせ、戦後マンガの議論にも影響したのではないか。ここには、回想など「記憶」によって成立する歴史像と、それをもとに成り立つ言説の、不確定さの問題がある。

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