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夏目房之介の「で?」

内田樹と矢作俊彦

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 URLを文字にはりつける操作が前と違うので、「リンクの挿入」というのを試してみようと。で、最近読んだ「内田樹の研究室 みんなまとめて、面倒みよう - Je m'occupe de tout en bloc」より、引用。ちなみに「みんなまとめて・・・・」はクレイジー・キャッツの植木等の歌からだね。
http://blog.tatsuru.com/

08月11日 「姉ちゃん、次にいい男をみつけたら・・・」より

〈矢作俊彦は私と同学齢の書き手でメディアに登場した最初の人であった。
私は同世代を代表する書き手を得たことに歓喜し、同時にこの早熟の才能にはげしく嫉妬した。
それから37年間、矢作俊彦は私のもっとも偏愛する作家であり続けている。〉

 内田さんは僕と同年で、つまり矢作俊彦もそうなんだね。そして、ここに書かれていることは、僕もまったく同じなのだった。
 もっとも、米「MAD」風の「革命的」パロディを描くダディ・グースという名のマンガ家だった彼が自分と同年齢だとは、最初知らなかったけども。
 以前、欧州の人気BD作家エンキ・ビラル氏を東京案内したとき、偶然、他の取材でビラル氏に会いにきた矢作さんと初対面で昼食を食べた。僕はビラル氏そっちのけで矢作さんとバカ話をして盛り上がってしまった。「恩賜のナンブ式拳銃を手に入れた」とかいう、わけのわかんない話だった(笑)。だから、

〈ほかのどのような作家も矢作の小説が与えるような種類の高揚感を私にもたらすことはない。
矢作俊彦は(橋本治とともに)日本文学における「突然変異種」である。〉

 という内田さんの気分はよくわかる。そして、

〈矢作俊彦の小説は1960年代に10歳から19歳までを大都市のボ・カルティエと卑しい街角を行き来しながら過ごした人間にとってのみリアルな、きわめて偏った「時代限定・地域限定的な教養」をリテラシーとして要求する。
もちろん、そのようなリテラシーをもたなくても、想像力のある読者は、矢作ワールドを文学的に追体験することができる。
けれども、そのような想像力豊かな読者は、矢作が描く60年代や横浜や日活映画を必ず過大に美化してしまう。
これを避けて、なお客観的であり続けることは、どのような節度ある読者にもできない(そもそも読書というものが「節度」とは無縁の行為だし)。
それはユーミンの『海を見ていた午後』を聴いてから、胸をわくわくさせて山手のドルフィンにやってきた少女が、ある種の魔術的オーラを「抜き」にして、その小さなレストランをもう見ることができないのと似ている。〉

 この部分もまた、深く首肯する。というか、ほんとにうまいなぁ、この人の表現は。
 とくに『海を見ていた午後』がここに出てくるのが、僕にはすごくわかってしまう。僕でも同じ比喩をしたかもしれないほどだ。どこかで似た経験をしているのかなぁ。

〈ひとたび矢作が描いた時代と風景は、そのことによってある種の「過剰な意味」を付与される。
私たちはもう矢作がそこに加えた神話的オーラを抜きにして、それを回想することができない。
[略]
同時代人にそのような「模造記憶」を植えつける仕事を矢作俊彦は40年間続けてきた。
誰に頼まれたわけでもないのに。
たぶん矢作俊彦は自分の歩いた場所、自分が触れたものが、別に意味のないものとして消え去ることに耐えられなかったのである。
[略]
矢作俊彦はそのようにして自分が生まれてから今日までのすべての時間が「人類史上空前にして絶後の夢のベルエポック」だったという「壮大な嘘」に同時代人を加担させてしまったのである。〉

 なるほど、うまい掬い取り方だなぁ。そうだったかのかぁ。こういうとこ、学識と教養を感じてしまいますねぇ。ベンキョのできた人と、できなかった人の差が、40年後に出てる気がしますです。さらに、

〈このプロジェクトを通じて、おそらく矢作俊彦は日本人に「誇り」を取り戻させようとしていたのではないかと思う。
私がいまここにいて、この場所の空気を吸っているということ、それ自体がすでに聖別された特権的経験なのだという確信は、人間を安心させ、勇気づけ、倫理的にすることができる。
その点で、幕末から日露戦争までの歳月こそ「日本史上まれに見るベルエポック」だという巨大な物語のうちに日本人読者を巻き込んで、国民的矜持を立て直させようとした司馬遼太郎の企図は矢作俊彦に通じるものがある。〉

 矢作さん自身はどうとるかわからないが、たしかに受け手にとっては、こういうのアリだなと思う。ここには、もちろんいくつかの飛躍やあえてする断定がある。でも、何かを言い当てている。
 我々がある時代と場所をもっている(いた)こと、もちうることの価値と、矢作俊彦という作家との関係を言い当て、そのことで人にとって大切な何かを示そうとしている。
 人が、ある時代、ある場所に、人々とともに生きた(生きる)こと。
 そこに何があれば人は倫理的たりうるか、ということ。
 そのことが「過去」として、どんな機能を果たしうるか、ということ・・・・。
 しかし、あまりそれを目をつりあげて強調すると、逆にろくでもないことになるので、絶妙な間合いで触れた手を離す。
 矢作小説では、その手つきは切ない感情になる。内田さんの文章では、武道の身のかわしのような格好良さになる。
 「国民的矜持」なんて言葉を、すらっといって身を翻してしまうところは、さすがに達人である。

 なんて書いてきて、そういえばずいぶん前に買った矢作さんの新作長編を、まだ読んでいないことに気づいた。いつになったら読めるんだろう。なさけねぇ。

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