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ライフワークとしての学びを考えます。

現代人は時間と呼ばれる現象があるのだという端的な事実を忘れている

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最近、スマホを持ち歩いて便利だと感じることがあります。
それは、ちょっとした空き時間を有効利用できることです。

私は、「スマートニュース」を日々愛読しております。どんなニュースも短くまとめられて、さくさく読めますし、しかも最新ニュースに自動更新されているのです。

こういうことは「知らないと気にしない」ものですが、いったん知り始めると「知らないと不安になる」ものです。
知らないことが不安でなんとなくモヤモヤしてしまい、常時チェックしているようになっています。

こういう便利なものを持っていると、レジで並んでいても自分の前に二人待っていることでさえジリジリしてしまい、ついついスマートニュースやメールなどをチェックしているのです。

そうなると、電車を待っいるとき、信号を待っているとき、エスカレーターで移動しているとき、レストランで次のお料理が来るまでのひととき・・・・もう「時間がもったいない」とばかりに、情報をチェックしていないと気が済まない状態になっています。

例えば、以前は、電車を待っているとき、ふとホームを通り抜ける風に秋の気配を感じたりとか、木々の緑が少し色づいてきたなど、スマホを持っていないときは、そういうちょっとした自然に心を奪われる瞬間があったりしていました。
また、レストランでも、前のお料理の余韻に浸りながら、次のお料理をイメージしている時間が良かったはずなのです。

よく考えると、最近はそういうことがほとんどないことに気がついたのです。

これは社会全体がそうなっているのでしょうか。

最近知人と山に入ったときのことです。

ソフトバンクがなかな電波が通じないことがありました(北アルプスは本当に通じません)。
山道を歩きながらスマホを見て「電波が、電波が・・」と、常に気にしているのです。「少しは自然を味わったら?」と言うと、本当はメールや情報が見たいだけなのに、「遭難して電波が通じなかったらどうする」と強がりを言っています。
また、レストランに入っても、料理をひとくち食べたあと、スマホをすぐに見て「帰りの電車はこれで、この時間に乗れれば、何時に帰れるから、間に合うように早く食べよう。」と言っています。もちろん時間の無駄を省くことは悪いことではありませんが、私には、「もう少し料理を味わう時間もあっていいのではないか?」と思えました。

もう「ちょっとした空き時間に、何かを感じる」ということさえも出来にくくなっているのではないかと思えました。

そんなことを考えていたら、2014年9月1日日本経済新聞「プロムナード」にて批評家の佐々木敦さんが、ジョン・ケージ作曲の「4分33秒」について書いていました。

アメリカの作曲家ジョン・ケージの「4分33秒」という有名なピアノ作品は、4分33秒の間、演奏家がピアノの前に座ったまま何も弾かない、という楽曲です。

    ・・・・(以下引用)・・・・

私たちは、時間の純粋な流れを感じ取ることはできない。ああ、いま時間が過ぎてってるなあ、と思うことがあったとしても、それはあくまでも個人的な感覚でしかなく、物理的な、客観的な時間は、私たちの意識がどうであろうと、毎秒一秒の速度で黙々と動いている。長いようで短い、とか、その反対といった感慨は、詰まるところ内的時間と外的時間のずれによるものだ。むろん、より哲学的に、あるいはより科学的に考えていけば、これほど単純ではないのかもしれないが、ともかくも、私たちとは無関係に、時間と呼ばれる現象があるのだという端的な事実を、「4分33秒」は、ほとんど乱暴とさえ言えるような仕方で教えてくれる。

    ・・・・(以上引用)・・・・


現代最高のピアニストと言われる、クリスティアン・ツィマーマンのリサイタルのことです。アンコールで、なんとこの「4分33秒」が演奏されたことがありました。

とても長く感じられた「4分33秒」が終わると、聴衆の拍手も小さく、また、客席を立ち上がる人がいて、明らかに抗議の意を表すように「カッ、カッ、カッ!」と足音をたてながらホールを出て行ってしまう人がいました。
「せっかくツィマーマンの弾くピアノを聴きにきているのに」「何かばかにされている」というような思いがあるのでしょうか。

このとき、ツィマーマンがなぜこの「4分33秒」を「弾いた」のか、なんとなくわかるような気がしました。
以前の記事でも書きましたが、ツィマーマンは、自分の演奏がyoutubeなどのウェブ上にのることをあまり良く思ってはいません。

参照記事リンク→ネットの世界で消耗する 最後の巨匠

人生に一度しかないこの共有する時間をもっと慈しむように感じてほしい。
時間は、人生は、有限なのだよ。
そんな声が聞こえてくるようでした。

この記事を書いて、ふと、自然の中を吹き抜ける風を感じにいきたい。
そして、一瞬でもいいから無になれるときが訪れてくれたらいい。
そう思えました。


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