私が私を受け入れるために 「戦場のフォトグラファー ジェームズ・ナクトウェイの世界」
カメラマン、ジェームズ・ナクトウェイ。
以前、「戦場のフォトグラファー ジェームズ・ナクトウェイの世界」というドキュメンタリー映画を観ました。
なぜ、ナクトウェイは、戦場に出向くのか?
戦場写真は高く売れる。だから戦場カメラマンをしているのではないか?という疑問は、このドキュメンタリーを観ていればすぐに払拭されます。
ナクトウェイは「他人の不幸で飯を食っている カメラを持った吸血鬼になりたくない」という矛盾を常に抱え続けながら写真を撮りつづけています。
写真の持つ力を信じ、報道により戦争や貧困のない世界につながると考えているのです。
彼は、死体の山を目の前にしても、目を背けたくなるような修羅場に遭遇しても、その表情は、常に悲しみを内包した静けさを崩さない。
映画の中で印象的なシーンがあります。
暴徒の中でリンチを受ける男性のために土下座をするのです。
「恐怖はないのですか?」
という問いに
「恐怖を乗り越えるのも仕事のうちです。マラソンランナーが苦しみを乗り越えるように」
と答えるナクトウェイに、想像を絶する過酷な現場で、「明日死ぬ」という覚悟で今日を生きる一人の人間を見る思いがしました。
戦場において人間の強烈なエゴをうんざりするほど知り尽くしているにも関わらず、人間の良心を本気で信じている。
そう思いました。
絶対にあってはならないような悲惨な状況において、ナクトウェイは一度も声を荒げることはなく、誰も裁かず、非難しません。
私は、悲惨な凶悪犯罪のニュースを見ると、いつももう一人の自分が静かに囁きかけるのを知っています。
「お前にもそういう部分、ないか?」
「一歩間違えば、あれはお前の姿ではないか?」
だから、「あんなことは許せない」と正義をふりかざし、声高に叫ぶことができない自分がいるのです。
ナクトウェイは知っているのだと思います。
この悲惨な現場は、すべての人間が持つエゴから作り出された現実だということを。
「写真家として最も辛いのは、他の誰かの悲劇で得をしていると感じることだ。
この考えは、常に私につきまとう。
人々への思いやりよりも、個人的な野心を優先すれば、私は、魂を売り渡すことになる。
人を思いやれば、人から受け入れられる。
そして、その心があれば、私は、私を受け入れられる。」
「私は私を受け入れられる」
この、映画の最期に語られるナクトウェイの言葉に、人間が問うべき永遠の問いを感じました。
素晴らしい映画を有り難うございました。
ナクトウェイの写真と映画の一部は下記で見ることができます。
「james nachtwey tribute」