一回しかできない、そしてその人の人格以上のものはできない
一回しかできない。
もう一度はない。
そして、もし「よし出来た!」と思う瞬間があっても、本当の最後の一回で、スルリと手元から離れてしまう。
人間の精神の深みが音に立ち上るようになるまでにはどのくらいの歳月が必要なのだろうか。その苦しみを味わうと、音楽の神様はまだ自分を許してくださっていないのだと思うことがあります。
2012年11月5日日本経済新聞こころの玉手箱に彫刻家の船越桂さんの記事が掲載されていました。
船越さんのお父様、船越保武さんも彫刻家でした。そのお父様の作品について語っている言葉が印象に残りました。
・・・・・(以下引用)・・・・・
一見完成している作品を見つめ、考え込んでいることがよくあった。もともと無口な父だが、そんな時はピリピリしていて声を掛けることすらためらった。ところが何日もたってアトリエをのぞくと、彫刻の人物像が強くなったり、思慮深い人のように見えたりする。何が変わったのか、どこをいじったのかも分からないが、子供にもその違いがはっきり分かるのだ。
人間の精神の深みのようなものが立ち現れてくるまで作り続ける。そんな姿勢を教えられた気がする。
・・・・・(以上引用)・・・・・
一見何も変わらない。
しかし何かが違う。
そして、その差は天と地ほどもある。
例えば、深みのある演奏というのは、何度聴いても新しい発見があります。
自分の人生経験を重ねると、さらに違って聴こえてくるということもあります。
数年ぶりに聴いた演奏がこんなにも素晴らしかったのかと思えるほど色鮮やかに感じたことがあります。
まるで、一人の素晴らしい人間を見ているとでも言うような、そんな気持ちにさえなるのです。
出来たなどと思うのは傲慢であり、自分の小さなエゴでしかありません。
芸術とは、仕事とは、その人の人格以上のものは出来ないと信じています。
私は、プロフェッショナルとは、その狭間でいつも自分を追及している人のことを言うのだと思います。
私は、人様に自分の「商品」を買っていただくということは、自分という人間を買っていただくことではないのだろうかと最近感じます。だから究極は、仕事とは、何を行うかではなく、誰が行うか、ではないでしょうか。
だからこそ、一生かけて人間学を学び続けなくてはならないと思っています。