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ライフワークとしての学びを考えます。

良い演奏だったけど声がソーラン節だったね

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私たちがやっている音楽というのは、もともとヨーロッパのものです。
そこには、乗り越えるべき壁というものがあります。
 
2012年10月6日、私が運営・指導を務める合唱団「コール・リバティスト」の練習がありました。
この日は、東混(通称とうこん、東京混声合唱団)の秋島先生に、全体の練習時間にいらしていただきました。
 
山田耕筰作曲、増田順平編曲の「烏の番雀の番」を歌いました。
 
この曲は、日本の作品であるのですが、山田耕筰はヨーロッパで研鑽を積み、ヨーロッパのハーモニーで作曲をしています。
そのため、「ソシ♭レ」という、ト短調のハーモニーが全体を支配しています。
 
大変速度の速い曲で、歌詞がまるで早口言葉のように連なります。しかし、これを単なる早口言葉の曲のように歌ってしまうのは、作品の本質ではありません。
あくまでも、「ソシ♭レ」の和音感の中で全体が動いている面白さを演奏しなければなりません。
 
いくら早くなっても、そこに確実にはまっているからこその面白さというものがあります。
 
秋島先生は「皆さんは、意外に良く雰囲気をつかんでいる。しかし、それらしくやるのは何とかなる。一番難しいのは『美しく』やることです。」
とおっしゃいました。
 
例えばモーツァルトらしくやるということ。
それは、一生懸命やると、なんとなくそれらしくなります。しかし、「モーツァルトを美しく、モーツァルトらしくやる」というのは当たり前だけれども一番難しいのです。
 
秋島先生が、昔、ウィーンでアマチュア合唱団とモーツァルトを歌ったときのことをお話しくださいました。
 
かなり練習をし、モーツァルトのスタイルから発音から、すごく勉強していったのに、現地の方に「すごく良かったけど、声がソーラン節だったね」と言われてしまったのだそうです。
 
日本人が一生懸命やっても結局音自身が違う。それは「発声のテクニック」とかそういう意味ではなく、本質的な意味ではないかということなのです
 
例えば、外国の優秀な合唱団が、日本の曲「さくらさくら」を歌ったりするのを良く聴くと「サ~コ~ラ~」となっている。
そうなると「外国の方にしては良くやっているよね。でも、まあ違うよね」となってしまう。
きっと、ヨーロッパの伝統音楽をやっている私たちも、向こうの方からするとそう見えているのではないでしょうか。
 
「ヨーロッパで日本人が認められようと思ったらヨーロッパの人より上手くやらないとダメですよね。明らかに乗り越えないと。ヨーロッパの人と同じくらいだと、外見だけで『本質的には違うよね』となってしまう。何が?と言われてもこれは説明がつかないものなのです。そういうことを皆さんも私たちもやっているんだということを自覚の上でやる必要があるのです」
というお言葉が印象的でした。
 
しかしです。
日本人の作品を、ここまで芸術的に演奏できる団体は、世界では「東混」しかないと私は思います。この演奏を聴くだけでも、私は「生きるに値する」と思っています。
 
私たちも、そのような演奏を目指したいですね。
 
この日は他に佐藤眞の「蔵王」より「樹氷林」、山田耕筰の「あわて床屋」、チルコットの「ユリとバラ」、松下耕の「三つの詩篇」より「谷川の水を求める鹿のように」を練習しました。
 
「三つの詩篇」は、ラテン語の聖書の言葉を日本語に訳して、魂を研ぎ澄ましたところからあふれ出た深遠、且つ難解な音を用いて書かれています。これこそ、日本人にしかできない領域。いや聖域。
素晴らしい作品です。頑張りましょう。

 
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