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「こんなのあり?」 ヘタウマとウマヘタ

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「ヘタウマ」とは、絵画や音楽の世界でよく使われている言葉で、その分野で要求される技術を満たしておらず、一見下手そうですが、それが味わいや個性になっていることを言います。
 
クラシックの世界で「ヘタウマ」といえば、ヴァイオリンの巨匠ヨーゼフ・シゲティ(1892~1973)だと思います。
 
シゲティのヴァイオリンは、音が始終ゆれたり、かすれたり、音の流れがぎこちなかったりして、現代のコンクールだったら予選で落選してしまうような演奏。
 
しかしこの現代においても、未だシゲティを超えるものはおらず、神様のような存在なのです。
 
外面的な技術を持って見事に演奏されるより、不器用に必死になって音楽の深みを追求しようとすることで、かえって深い内面性が浮き彫りになるという音楽。
技術は劣っていても、それを超えて心に迫る精神的な芸術性の高さに目頭が熱くなり感動してしまいます
 
もしかしたら、今人気のフジコ・ヘミングさんもそうかもしれません。
 
独特な間合いや節回しで弾かれるピアノは、「こんなのありなの?」と思わせるような演奏ですが、なぜか深くどっしりと響いてくる。「クラシックなんて聴いた事もない」という人々の心まで捉えてしまっています。
 
逆に、なんと贅沢なと思われるかもしれませんが、「上手すぎてなんだか物足りない」と感じてしまうことがあります。
「技術的に凄かったけど、なんだか心に残らない」ということはどんなことでもあると思います。これを「ウマヘタ」とでもいうのでしょうか。
 
例えば、結婚式の司会。
 
知り合いの結婚式でピアノを弾いたことがあるのですが、そのときの司会は友人代表の方でした。打ち合わせを行ったとき、プロの司会者ではないその方に対して、アテンドさんが「怖いかもしれませんがセリフを書いた台本を用意しないでください。そのほうが個性が出てお客様の心に残るような名司会になりますよ」とおっしゃっていたのが今でも印象に残っています。
 
これがプロの司会者だと、流暢で失敗がないかわりに、なぜか心に響いてこないということもあるのですね。もちろん素晴らしい方もいらっしゃるのですが、友人代表の名司会は一生心に残るものです。
 
長い年月かけて身につけたプロの安定した技術や上手さというものは、アマチュアが逆立ちしてもかなわない厳しいものであるし、誰もが到達できるような生半可な領域ではありません。
 
「ヘタウマ」画家でも、若い頃の作品は技術的に完成されている場合もあり、「ヘタウマ」といえども本来力量を伴うものなのです。
 
そして「ヘタウマ」は、見たり聴いたりするほうにも、曇りの無い心が必要とされます。
 
本来は、型にはまったものを見事にルーチンしていければ安心です。しかし、一見ヘタでも決められていない型で自分を表現していくというこの勇気。
それが、素晴らしい「ヘタウマ」の世界ではないかと思っています。

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