音が消えても心が残ることで何かが違ってくる
剣道にしても、ゴルフにしても、勝負がついてから、ボールを打って離れてから、が大事だといいます。そこで安心してはいけないのです。
2012年4月7日合唱団コール・リバティストに東混の秋島先生をお招きしての練習を行いました。
中田喜直作曲の「都会」より「子守唄」と「ふりむくな」を歌いました。
秋島先生は、さかんに「自分のパートだけを一生懸命歌っても合唱にならない。人と合わせようという気持ちにならなければ」とおっしゃっていました。
もちろん、自分のパートや、パートでの音がまとまっていなければ、全体であわせても合うわけがありません。まずは、「自分のパートがある程度はきちんと出来ていること」という前提ですが、全体で歌ったときに、他のパートに心を開いているか?というのはとても大事なことです。
他の合唱団で気になることがありました。パートのリーダーさんが「私たちのパートは出来ていますから。他に迷惑かけてません」とおっしゃることです。
パートが出来ているのはとても立派なことなのですが、音楽としてそれだけでは足りなくて、お互いが耳で聞いて合わせていかなくてはならないところで、壁のようなものが出来てしまうと、なかなか上手くハーモニーしません。
良いオーケストラというのは、ほとんど指揮者を見ませんね。それは、お互いが耳で合わせているからです。指揮は肝心なところだけを見るのです。
合唱はプロのオーケストラと同じようにはいきませんが、「合わせてみよう」という気持ちを持つことだけでも違ってきます。
そして、心を開くことで、見えないものも見えてきます。
例えば、この日は「残心」のお話しがありました。
「残心」と書いて「ざんしん」と読む。
日本の武道や茶道などの世界では、この「残心」が大切であるとされています。
弓道では、矢を射ったあと的に当たるまでは「残心」なのだそうです。
普通に考えたならば、矢が離れればもう結果は変わらないはず。
西洋的にしても同じようなことがあります。砲丸投げにしても、投げた後に気合が入る。フォームは続いている。
残心があるかないかで、結果が変わってしまう。
そこには、きっと数字では推し量れない見えない何かがあるのでしょう。
同じ「都会」の第2曲、「ふりむくな」では、「ふりむくな・・・!」と叫んだあと、緊張度の高い間があります。
実際の音だけではなく、その「間」にも心が残っていることで、表現が深まってきます。残心があるかないかでは全く違うといっても良いと思います。
音楽ではありませんが、お話しした後、なぜか良い香りのようなものが残る方がおられます。それは香水ということではなく、何か気持ちの良い、深みのある、心に残る香り。
そんな香りのある人になってみたい。そんな香りのある人生を送ってみたい。とこの頃思います。
音楽にも香りがあるのではないかと思います。心が残り、そして、その後、香りが残るような音楽をしてみたいですね。